5年後のいま、「真の復興」とは何かを問う短期集中連載。
あの津波から5年が経った。ブルーバックス『巨大津波は生態系をどう変えたか』を書き上げたのは1年後の春だったが、その後も海岸を走り続けた。
津波の跡で、生きものたちは大繁栄をとげていた。だが、それから数年のうちに、ほぼすべてが消えた。津波によってではなく、「復旧事業」という人の手によって。
自然は津波で息を吹き返した
自然の豊かさとは何かを問いながら、砂浜を歩き続けた。防潮堤など人工の建造物ならば、作った、壊れたということが誰の目にもわかりやすいが、自然界がどのように変化したのかは、視点を動植物に合わせて調べなければ見えてこない。
津波跡で、私が一貫して調べ続けたのは、海岸の生物の多様性だった。砂浜には砂浜の、海岸林には海岸林の生きものがいて、虫と鳥、植物と虫、そして虫どうしなど、それぞれが関係を持ちながら暮らしており、1種だけが残ったり消えたりするものではないのだ。
当たり前にいたはずのありふれた生きものが、そこにいるべきひととおりの顔ぶれで揃っているとき、それらは生態系を形づくる。そして、それがどれだけ健全か、すなわち豊かなのかをはかる尺度が「多様性」なのだ。
4年前にブルーバックスを書いたときは、私自身もまだ、生きものは津波によって大きな負の影響を受けたとの考えを持っていた。したがって、さまざまな生きものが、まずは生き残っているかどうかに重きを置いて記述していた。
「津波前から、人間の手によって分布が狭められていたものは、生き残れなかった」という予測は的中していた。他の記述も大きく外れてはいなかったとの自負もある。だが、その後の動植物の繁栄だけは、十分に予測できていなかった。
植物も昆虫も鳥も、予想をはるかに上回る規模での復活劇をみせたことは、素直に認めねばならない。
津波跡では、人への被害すなわち「災害」という視点をひとまず封印し、どのような自然現象が起こったのかを読み解こうと努めてきた。その視点から語弊をおそれずに書けば、動植物の復活とは、人間による開発という長年の「縛り」から解き放たれた自然が、息を吹き返したことを意味していた。
近年では自然への配慮が叫ばれ、「自然環境と調和した開発を……」といった表現も増えつつある。だが、これだけ息を吹き返した自然を目の当たりにして、やはり開発とはそれ自体が巨大な圧力であるということを、まざまざと思い知らされたのだ。
砂浜に広がった「お花畑」

初夏を迎えた宮城県東松島市の砂浜。「やませ」と呼ばれる冷たい風が、海から重い灰色の雲をもたらし、遠くないはずの石巻の工場群も霞んで見える。
津波から1年3ヵ月。まだ漂着した船が撤去されずに残る砂浜には、ハマヒルガオの花が絨毯(じゅうたん)のように咲き続いていた(1)。
津波の3ヵ月後に見たときは、根が残った部分からわずかに咲いているのみだったが、1年が経過するうちに、根を伸ばし、群落は見事に再生したのだ。
植物ばかりでなく、砂浜もまた、成長を続けるものだ。
津波によって砂浜が消失した話題はさかんに取り上げられたが、ほとんどの場所では、少し内陸側にずれる形で、砂浜は再生しようとしていた。
ただ、砂浜の成長には5年、10年という単位の時間がかかる。結果的には復旧事業のほうがはるかに早く進むなかで、砂浜の成長を見届ける余裕はなかった。
もちろん、砂浜の表土が大きく流されてしまった場所もあり、そうした場所では植物の再生はずっと遅れた。
しかし、多くの砂浜では、塩分や砂の動きに強い海浜性の植物が、目を見張る速さで回復した。たえず高潮などによる表土の攪乱にさらされるだけあって、一部分が枯れても、残った根や種子などからの再生能力は、通常の植物よりもずっと高い。
仙台平野では1ヵ所にだけ残ったハマナス(2)も、翌年にはびっしりと花をつけたし、その若い芽や葉を摘んで食べる習慣が今も息づくハマボウフウ(3)や、コウボウムギ(4)などの目立たない海浜植物、そして初秋には淡い黄色のウンラン(5)が、咲き続いた。
昆虫も同様だった。この連載でいずれくわしく触れるが、国内での減少が進んで絶滅危惧種となってしまっていたカワラハンミョウ(6)が、わずかに生き残った個体をもとに、1年で著しく数を増やしていたのだ。砂浜が夜のとばりに包まれると、日中は隠れていたハマダンゴムシ(7)が、次々と砂の中から這い出してきた。





