「スパイを防ぎたければ、真の日本人になれ」戦中に政府が広めた思想

話題の「スリーパーセル」発言を受けて
辻田 真佐憲 プロフィール

防諜とは靖国神社で涙すること

広義の防諜思想を広めるため、当時さまざまなキャンペーンが行われた。ここでは「国防保安法」の施行にあわせて行われた、防諜週間(1941年5月12〜18日)の前後をみてみよう。

これに関連して、官民でさまざまな催しが行われた。防諜映画や防諜童話、防諜紙芝居などが発表されたほか、6月の宮中の月次歌会では、「早苗」「鮎」とともに「防諜」が通題に選ばれた。

なかでも、5月11日付の『読売新聞』で発表された、国民総意の歌「さうだその意気」(西条八十作詞、古賀政男作曲)はとくに注目に値する。というのも、ここには当時の防諜思想がもっともよく表れているからである。

その1番の歌詞を以下に引く。

なんにも言へず 靖国の
宮のきざはし ひれ伏せば
熱い涙がこみあげる
  さうだ 感謝の その気持
  揃ふ 揃ふ気持が 国護る

この歌詞には「スパイ」の文字も、「防諜」の文字もない。だが、防諜問題の専門家で、『読売新聞』にこの歌の企画を持ちかけた、陸軍省防衛課の大坪義勢中佐によれば、これは「防諜の歌」なのだという。

 

「『聖戦完遂、国民総意の歌』(仮称)は、実は『防諜の歌』なのである。防諜の真の心構へを歌に依つて国民に打ち込まうとして募集したのである。国民の現在の防諜思想は『秘密を漏らすな』または『諸外国の諜報を防げ』の程度で、更に進んでゐても『諸外国の諜報宣伝謀略を防げ』との抽象的な消極的な観念を出てをらない」

大坪の考えでは、防諜は「スパイに警戒すること」「秘密を漏さないこと」にとどまらない。その「真の心構へ」とは、靖国神社に参拝して涙し、国民の一致協力を誓うことだ。その意味で、「さうだその意気」は広義の「防諜の歌」だというのである。

〔PHOTO〕gettyimages

もっとも、このような陸軍側の意向は一般国民になかなか伝わらなかったらしい。この歌の歌詞ははじめ『読売新聞』紙上で大々的に懸賞公募されたものの、応募は6000篇にも満たず、しかも優良なものも得られなかった。そこで、審査員のひとりである西条八十が作詞することになった。

大坪中佐はこの歌にかなり入れ込んでいて、西条の歌詞にもダメ出しした。ところが、西条から「なんなら貴方が書いて御覧なさい」といわれて困り果て、結局原案のまま採用するはめになったという逸話が残っている。

いずれにせよ、完成した「さうだその意気」は、外務、内務、大蔵、海軍、陸軍、司法、農林、商工、逓信、鉄道、拓務、厚生12省の撰定歌になり(文部省は検定のみ)、コロムビアから発売された。

最終的に、大坪中佐もこの歌のできに満足だったようで、ある防諜の講演会で「私の講演は、実はこの歌でつきているので、皆さん方がこの歌を吹き込んであるレコードをコロムビアからお買い求めの上、歌つて下さればそれでよいのです」と述べている(『国家総力戦 防諜講話』大日本雄弁会講談社、1941年)。

防諜キャンペーンはこれにとどまらず、その後も、防諜標語、防諜ポスター、防諜作文、防諜脚本、防諜川柳、防諜短歌、防諜漫画など、ありとあらゆる取り組みが行われた。