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なぜヒトにだけ「長い老後」があるのか? 生物学者・福岡伸一の答え

科学的探求の先に浮かび上がるもの

提供:「#老後を変える」編集部(メットライフ生命)

日本人の平均寿命は2016年に過去最高を更新し、女性は87.14歳、男性は80.98歳。いまや100年生きることも珍しいことではなくなった。われわれには「長い老後」が待っているのだ。

しかし、生物というくくりで考えると、これは少々奇妙なことだ。ヒト以外のほぼすべての生物は、生殖可能な期間が終わると寿命もまた尽きるからだ。なぜヒトにだけ「長い老後」が用意されているのだろうか?

この謎を生物学者・福岡伸一先生にぶつけてみたところ、ハカセは私たちが老いることの意外な意義を明かしてくれた。

昭和は遠くなりにけり

平成の世もまもなく暮れようとしている。

新しい元号はどんなものになるのだろう。

天皇の譲位によって改元された前例(江戸時代の光格天皇から仁孝天皇へ)では、一文字を継承したそうだから(文化から文政へ)、一説には、平成に敬意を表して、どちらかの文字が引き継がれる可能性が高いという。

ただし、頭文字(H)が重なると、表記に不便なので、◯平か、◯成になるのではないか。過去に使用例の多い漢字(永、元、天、治など)を参照し、かつ読みが重ならないものを選ぶと……「永成」なんてどうでしょう。

まあ、仮に、「永成」の新しい世になったとして、われわれ昭和生まれ(私はど真ん中の昭和34年です)は、平成の向こう側の古世代となる。それはちょうど私たちが、大正をはさんで遠く明治を見ていたような感じになってしまうはずだ。

私が若かった頃は祖父祖母を含めてまわりにはまだまだ明治生まれの人がたくさんいて、古い歌を歌ったり、昔の自慢話をするのを、ものめずらしく、そして半ばうとましげに聞いたものだ。その明治世代の最後は1912(明治45)年7月30日だから、このとき生まれた人は、今年は106歳となる。

いまや、昭和世代の私たちが、やれ万博が、やれ浅間山荘事件が、あるいはニュー・アカデミズムが、バブルが、と自分の青春の思い出を滔々と語ることが、平成生まれ・「永成」生まれの新世代にとって、ものめずらしく、うとましいものとなりうる。

片や、平昌オリンピックで華麗に活躍する選手たちや、将棋界に彗星のごとく出現した藤井聡太棋士の冷静沈着なる対局ぶりを目の当たりにすると、時代を担い、動かしていく世代が、とうに私たちではなく、新しい若者たちに完全に移っていることを痛感する。

世代は確実に交代し、昭和は加速度的に遠くなりつつある。

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生物界の世代交代

ところで、生物の世界に目を転じてみると、世代交代の理(ことわり)はもっとストレートでシンプルである。

次の世代が生まれれば、前の世代は消える。

いちばんわかりやすいのは単細胞生物。細胞分裂によって新しい細胞(これを娘細胞と呼ぶ=母なる細胞は誰の力も借りず、娘を作れる)が二つ生成すると、古い細胞の存在はそこで消える。大腸菌なら分裂から次の分裂まで約30分。人生たった30分である。

アリとキリギリスのイソップ物語を思い出してみよう。

夏の間、アリたちはせっせと働き、来(きた)るべき厳しい季節のために食糧を備蓄する。一方、キリギリスはバイオリンを弾き、歌を歌って気楽に過ごす。やがて寒い冬がきて、キリギリスは餌を探すが見つからず、アリに物乞いをするが、すげなく断られ、のたれ死んでしまう……。

勤勉さと享楽的生き方を対比した寓話なのだが、あまりにも擬人化しすぎている。

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キリギリスの名誉のために言えば、キリギリスが楽器を演奏し歌を歌うのは、メスを誘うためであり、つがいが成立すれば土の中に卵を産み、これが終われば彼らは生命をまっとうしたことになる。

冬が来る前にすべてのキリギリスは還るべくして土に還る。アリに物乞いをする必要などなにもない。

春になれば卵から次世代が孵ってまた歌を歌いはじめる。

一方、アリの名誉のために言えば、アリたちが巣の中に食糧を備蓄するのは、節約や勤勉の現れではなく、ただひとえに幼虫の養育のためであり、働いたアリたちもそれぞれ2ヵ月程度の寿命が終わると死ぬ。

これはキリギリスの寿命と同じくらいであり、夏に出会ったとすれば彼らは秋には同じような末路を辿る。

意地悪をしている余裕などなく、餌の運搬、巣の整備、卵や幼虫の世話など自分の役割が終われば消え去るのみである。そして役割とは次世代を作ることにつきる。

一時期、侵入外来種として毒針を持つヒアリが話題となったが、アリはハチの一種であり、それゆえ毒針を持つアリがいても全く不思議ではない。アリやハチのような社会を営む昆虫においては働き手の大多数はメスである。

オスの役割はただひとつ、遺伝子の使い走りである。

ミツバチの社会では、ある一定の比率でオスが生まれるが、このオスは女王蜂の遺伝子を、他のコロニーに運ぶことだけが役割である。

つまりオスは社会にとって単なるツールでしかない。

巣の外へ出て遺伝子を届け終わったあと、オスのハチは一応はもとの巣に戻るが、ここではもはや邪魔者でしかない。

食糧も満足に与えてもらえず、奥の方に追いやられ、あとはむなしい骸(むくろ)となって、巣の底に転がることになる。

なぜ人間にだけ「長い老後」があるのか?

こんな話をして、いったい何が言いたいのかといえば、ヒト以外のほとんどの生物において一世代とは、生殖可能な期間(もしくはそれに寄与する期間)のことであって、その役割を果たしたあとは潔く退場する、というのが自然のふつうの姿である、ということだ。

人間(ホモ・サピエンス)だけが、生殖年齢を超えても、ずっと長く生きる。これが生物学的に見たヒトの「老い」の期間であるといえる。

女性の場合、閉経という現象があるので生殖期間とそれ以降の期間が明確だが、最近の研究では、男性にもホルモンのバランスが変化する「更年期」が存在することがわかっている。女性の閉経ほどはっきりした変化は起こらないが、男性も生殖期間を終え「老い」の期間に移行するといえる。

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そして老いの時間は生殖期間と同じくらい長く続く。ヒトに近い霊長類はこんなことがない。チンパンジーもゴリラも寿命の終わり近くまで生殖期間がある。つまり生殖期間が終わると寿命もつきる。

これまでのところ、ホモ・サピエンス以外で、長い閉経後の期間があると判明している生物種は、シャチとある種のクジラくらいである。

どうして、ヒトにだけ長い老後の期間が用意されているのだろうか。

他の生物の様子を見て明らかなのは、生殖期間が終わった個体が退場する理由である。若い次世代に生態学的な場所、つまり、すみか、餌、その他の環境資源を譲るためである。生殖に参加しない老齢個体がうろうろしていては、食糧も、エネルギーも余分に必要になるので、じゃまになるだけである。

すこし前のこと。この話をどこかで中途半端に聞きかじって不用意な発言をした政治家がいた。

「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババア」で、「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪」であると言って、大いに物議をかもした(今なら炎上というべきか)。いわゆる「ババア発言」である(誰が言ったか知りたい方はネットを叩いてみてください。さもありなんと思える御仁)。

なかなか乱暴な物言いである。実は大事な議論の核心はこの話のもう一段先にある。一見、無駄にみえるような、老齢期の生存がなぜヒトにだけ許されているのか、という問いが重要なのである。

ちなみに、もし老齢期が無駄で罪ならば、その咎(とが)はおばあさんだけでなく、おじいさんにも課せられなければならない(男性も老齢期には生殖活動からは遠のくのだから)。

そして、老齢期の存在は、文明がもたらしたものではなく、生命の進化がもたらしたものである。

それゆえ、ここには何らかの進化的理由が存在しているはずだ、と考えるのが科学的態度というものである。これが一段先、ということ。

子孫を残す二大戦略

生物学では、今ある生物の形態・習性・特性は、そこに何らかの理由があるからそうなっていると考える。

理由というのは、生き残る上で有利である、ということ。これが進化的理由。

つまり生物において「無駄で罪」なことはありえない。

だからヒトの場合、生殖能力を失っても、なお長生きすることについて何らかの合理性があると考えるべきなのだ。

「老い」の期間が長く存在することが、ヒトという生物の繁栄にとって何らかの利点があったと考え、その理由を探るべきなのである。

子孫を残すため、生物が採用している戦略は二通りある。

ひとつは、できるだけたくさんの子孫を、できるだけ効率よく産むという方法。一気に何万個もの卵を産んで、産み終わったら命を終えるサケのような生き方がこれにあたる。

一方、もうひとつの戦略は、生んだ子どもをできるだけ手厚く、丁寧に保護して育てる、という方法である。ケアが必要なぶん、たくさんの子どもを一度に産むことはできないし、子育てに手間ひまがかかるうちは次の子どももつくれない。ヒトのやり方はこれだ。

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大量の卵を産む方法は、次世代へ生命をつなぐ個体がわずかでも生き延びることに賭けるしかなすすべがない。しかし親の責任はここまで。後は野となれ山となれ。

とはいえ、多くの種がこの方法で生き延びてきたのだからそれなりに成功しているわけである。

一方のケア型の戦略はどうか。

めんどうな子育てには時間と労力がいる。なかなか一人前にならない。そして、ここが重要なポイントなのだが、親はいったいどの時点まで子どもの成長を見守ればよいか。成人に達するまで?

いや、たとえ子どもが成人に達しても、その先、何もなさなければ生命の系譜はそこで途絶えてしまう。だから一番確実なのは、その子が成人し、結婚して、次の世代をつくるところまでを見届ることだ。

親は孫の誕生をもって初めて一安心できる。

つまりケア戦略においては、各世代は、次世代(子)を作るだけでなく、次々世代(孫)までをケアするところでようやくひとつの仕事を達成することになる。それがゆえに、おばあ、おじいの必要性が生じた。

ただしダーウイン進化論的には必要に応じて生命は進化できない。進化は偶然の突然変異で起きる。突然変異に方向性はない。

だからこの間の変化を正確に言うとすれば、あるとき生殖期間を終えても寿命がつきないような突然変異が起き、それが種全体の存続に有利に働いたゆえに、この特性をもったヒト種が生き残った、となる。

ヒトが選んだ価値

そうなると、「老い」の生物学的存在意義は、子どもの子育て、つまり孫世代のケアである、ということになるが、果たしてそれだけだろうか。

ライフスタイルが多様化するにつれ、必ずしも、子あるいは孫がいない(あるいはその世代のケアに関与し(たく)ない)老齢者も増えてくるはずだ。そのような人々は「無駄で罪」なのだろうか。

生物のあり方を、進化論的合理性だけから考えすぎると、生命の持つ豊かさを見失ってしまうことがありうる。

とくに、われわれホモ・サピエンスという種は、進化史上初めて、遺伝子の企(たくら)みに気がついた生物であるといえる。

遺伝子の企みとは、産めよ増やせよ、という利己的な命令につきる。ヒト以外の生物は基本的にこの命令に従って生きる。次世代を残すことだけに全精力を費やし、それが終わればただ朽ちさるのみ。このように個体はすべて種のために使い捨てされる。

遺伝子の乗り物としての種が存続さえすれば、個体はどうなってもよい。それが遺伝子の企みにかなうことになる。

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ところが、ヒトは知能を得て、遺伝子というものの存在を知り、その企みを知った。そして遺伝子の企み熟知した上で、なお、種の存続よりも個の存在が重要だという思考に価値を見出した初めての生物となった。

個々の生命体(つまり個人としてのヒト)が、遺伝子の企みに反したからといって(つまり結婚しないことを選んだり、子どもを作らないことを選んだりしても)、それが悪いこと・罪なこととは考えないことを選んだ。

実際、そうしたからといって生物学的な罰則はないことにも気づいた(子どもを作らないと寿命が短くなるといったことはない)。

つまり、ヒトは、生命よ自由であれ、という価値を選んだ。

遺伝子の命令からの自由。

これが人権の生物学的な起源だ。

人権は、障害がある人にも、子どもを作らない人にも、健常な人にも、子どもをつくる人にも、すべて等しくある。つまり、種の存続という遺伝子の意図に寄与してもしなくても、個としての生命体自体の存在に価値を置く。

このような視点からあたらめて「老い」を考えなおしてみる必要があるはずだ。つまり、「老い」が種の存続の用に足るか足らないか、という視点からだけ見るのをやめてみるべきなのだ。

加齢とともに新たに獲得するもの

次世代のケアのためだけに長い余生が準備されているのではない。

生命よ自由であれ、というテーゼから見て、ヒトという生物個体にそなわった長い余生そのものに価値を見出すべきなのだ。

そこに現れるのはいったいどのような自由であり、いかなる価値なのだろうか。

確かに私たちは加齢とともに衰えていく。運動能力も思考能力も低下していく。

若者たちのように氷上を華麗に舞ったり、雪の急斜面をナイフのように鋭く滑走することはできない。あるいは、天才的な切れ味で妙手を放ったり、緻密な演算を瞬時に行ったり、驚くほどの情報を記憶することはできない。

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、すべての知覚もまた知らず知らずのうちに鈍くなっているはずだ。

しかし、一方で、私たちは加齢とともにある種の新しい視界を獲得している。

それはちょうど苦労して山道を昇り、頂上に達して、そこからの展望を得て初めてみえる風景があるように、統合的・総合的に世界を眺めることができるということである。

これは「老年的愉悦」とでも名づけたい感覚である。

老いる=自由になる

若い頃にはどうしても目先の課題、その領域でのロジック、そこでの精密さにとらわれがちだが、年を取るとともにもう少し大きな絵図が見えるようになってくる。

私の個人的な体験をいえば、分子生物学者として出発した駆け出しの頃は、つねに、新しい遺伝子、新しいタンパク質の探査・究明と、発見における先陣争いにだけしか興味がなかった。

が、年を経るにつれて、遺伝子と遺伝子の関係性、タンパク質の分解と合成のバランス、といった生命のダイナミズムにより関心が向くようになり、動的平衡というコンセプトを模索しはじめた。

そしてこのキーワードによって生命の本質を捉えなおしたいという、いわば哲学的希求が強くなってきた。こうなるともはや独自の求道的世界になり、競争や功名とは関係がなくなる。

しかもそれは、気宇壮大な構想とか、宇宙的・スピリチュアル的な直感(これもまたしばしば年を取ることによって陥りやすい単純化の落し穴だと自戒しているのだが)とかとは全く無縁の、より解像度の高い、数理的な共通言語で表現できることをゴールとしたものである。

こうして私は最近、動的平衡の数理モデルとして「ベルグソンの孤」という概念を発表した(詳しくは『新版 動的平衡』『福岡伸一、西田哲学を読む』)。

こんなに自由に学問ができることになるとは思いもしなかった。これを愉悦と呼ばずなんといおうか。

もうひとつ、年を取ることの楽しさは、時間軸を再発見することである。

私は、科学者として科学を研究してきたつもりだが、気がつくと科学の歴史、つまり科学史にずっと惹かれてきたことに気づかされた。

発見そのものよりも、発見の経緯や発見者たちのドラマが面白いのだ。私の代表作『生物と無生物のあいだ』はこのような関心から書かれた。

あるいは私は17世紀の画家フェルメールのファンなのだが、フェルメールのどこが好きかといえば、彼の絵の客観性や謙虚さである。フェルメールには「これがオレの世界だ」みたいな自己主張がなく、奥行きにしても、光にしても、細部にいたるまで実に公平に描かれている。そこに科学者的なマインドを感じるのである。

そんな興味からフェルメール巡礼をしているうちに、すっかり芸術史にも親しむようになった。

そして芸術史は、たとえばフェルメールの同時代人で、顕微鏡学者だったレーウェンフックのような人物を通じて、科学史にもつながっていることを学んだ。愉しい。

これら歴史への接近もまた、自分が年をとったがゆえのことなのだ。

自分自身の時間がある程度の厚みを持ってくると、それがより大きな人類の歴史−−それは科学史や美術史のような文化史であってもよいし、昭和史や戦後史といった近現代史でもよい−−と接続するように感じることができる。

私が生きた昭和、平成、永成(?)は、戦後70年史のリアルな一部だし、それはダイレクトに戦争の時代を含む昭和史とつながっている。私はその中で教育を受け、感化され、批判的に鍛えられた。

これが自分の中に時間軸を再発見するということであり、老年的愉悦の源泉でもある。

つまり「老いる」ことは衰えというよりも、さまざまな制約やしがらみから脱し、より自由になるということなのだ。

これから老いを迎えようとする人は何も心配する必要はないし、老いの最中にある人はますます自由になればよい。

この老年的愉悦を若い人にわざわざ教えてあげる必要はないし、教えてもたやすく感得できるとは思えない。

けれどもほんの少しなら未来の予感として分け与えることができるかもしれない。それは回り回って、巡り巡って、種の存続に何らかの貢献を果たすかもしれない。

そうだとすれば、これもまた「老い」ゆく私たちの生物学的存在意味かもしれない。

福岡伸一(ふくおか しんいち):1959年東京都生まれ。京都大学卒。ハーバード大学医学部研究員、京都大学助教授などを経て青山学院大学教授。
分子生物学者としてのキャリアに裏打ちされた科学の視点と、平易で叙情的な文章でサイエンスの魅力を伝える書き手として人気を博し、『生物と無生物のあいだ』がベストセラーに。同書でサントリー学芸賞・新書大賞を受賞する。