〔PHOTO〕アメリカ国立公文書記録管理局所蔵

焼夷弾は手掴み、空襲は大丈夫…国民は「東京大空襲」をどう迎えたか

フェイクニュースと国民統制の恐怖

間もなく3月10日を迎える。73年前(1945年)のこの日、アメリカ軍が東京の下町を空爆し、約40平方キロメートルが消失した。死者は10万人以上、被災者100万人以上、焼失家屋は27万戸にのぼった。

なぜこれだけの被害が生じたのか。直前まで国民は空襲をどのように予期していたのか。

政府による指導方針の問題点は過去記事で触れたが、さらに東京大空襲の直前期に焦点を当て返ると、開き直ったフェイクニュースと国民統制の恐ろしさが見えてくる。

 

焼夷弾は「手掴み」で投げ出せ

東京大空襲の前年、1944年の6月以降には沖縄や九州が空爆の標的になり、同年11月には東京都心部も頻繁に空爆を受けるようになった。一度に数百名の死者が出ることもあり、各地に焼け跡が広がった。

ところが政府は、その被害実態を国民に知らせず、従来どおり「逃げずに消火活動をせよ」と指導し続けた。新聞紙面には次のような見出しが並んでいる。

左から読売報知1944年7月9日付、同年12月25日付、1945年2月27日付

「焼夷弾 手掴み」という読売報知1944年7月9日付の記事は、前日に北九州市を襲った空襲の報告である。

焼夷弾を素手で握って放り出した、地下足袋でもみ消した、と怪しい武勇伝が並ぶ。3千度の高熱を帯びた燃焼剤を噴出する焼夷弾を素手で持てるとは思えない。

「焼夷弾 一戸も焼かず消火」という記事は、1944年12月24日に空襲を受けた東京都江戸川区の消火活動を紹介。

「焼夷弾ですか、こんなのは消すのが当たり前の話で、火事にするなどとんでもない」と勇ましい住民の言葉で締め括っている。

「初期防火 隙はなかったか」という記事は、東京大空襲の11日前、1945年2月27日付に掲載された。町内会で200発の焼夷弾を全部消火したという怪しい武勇伝を称賛する一方で、怖がって初期消火が遅れた町内では火災が起きたと厳しく非難している。

この記事で、警視庁消防課長はこう言っている(当時の消防署は警視庁の管轄下だった)。

・爆弾が落ちたら待避所(防空壕)から飛び出して消火活動をせよ。
・自分の家が燃えているのに爆弾を怖れて待避所に逃げているなど、言語道断だ。
・家が燃えているとき、布団や荷物を持ち出すだけで消火しないのはよくない。
・消防車を待つのではなく、自ら初期防火にあたれ。
(読売報知1945年2月27日付 より)

すでに防空法により避難と退去は禁止され、消火活動の義務も課された。違反した者は懲役刑などの処罰を受ける(過去記事を参照)。そのもとで、消防課長が発した「逃げるな」の指示には重みがある。