西部邁の自殺に影響を与えたかもしれない、「ある女性の死」

全学連時代からの盟友が…
佐野 眞一 プロフィール

3人の死が伝えるもの

78歳で自殺した西部は、前述したように60年安保を称して「空虚な祭典」と呼んだ。「空虚な祭典」とは何か。西部は前掲の『六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー』で、次のような意味のことを述べている。

――60年安保当時、日本の高度経済成長はすでに始まっていた。「経済白書」が「もはや戦後ではない」と高らかに宣言したのは、60年安保4年前の1956年のことだった。  

ところが、政治の世界に目を向けると「もはや戦後ではない」どころか、戦時中活躍してA級戦犯となり巣鴨プリズン入りした岸信介が首相として復活してきたように、日本の政治は戦前を引きずったままだった。それを是正するための儀式が、安保闘争という馬鹿騒ぎの「お祭り」だった。これが西部流の60年安保の解釈である。

 

5年前に亡くなった民俗学者の谷川健一も、「現代の眼」の1969年12月号に発表された「祭りとしての〈安保〉」の中で、同様の解釈をしている。

――60年安保は戦後最大の大衆行動だった。連日30万人もの大群衆が国会を包囲した例はほかに発見できない。その巨大なエネルギーは幕末に大流行し、明治維新の一つの引き金となった「ええじゃないか」によく似ている。西洋直輸入のマルクス主義だったら、これほどの高揚感は生まれなかった……。

唐牛真喜子さんと西部邁の相次ぐ死は、60年安保が日本人にとってすでに過去のものになったことを象徴している。

それだけではない。明治維新150年目を迎え、今上天皇の退位が間近に迫った現在、60年安保闘争の忘却は、日本そのものが溶融しつつあることを物語っているような気がする。

西部邁が60年安保闘争を「空虚な祭典」と称したことは再三述べてきた。しかし、60年安保闘争をいわば支点として、江藤淳、吉本隆明などの優れた文学者、思想家が生まれたこともまた事実である。その意味でいうなら、日本の60年代は“空騒ぎ”の時代であったのと同時に、大きな実りを残した豊穣の時代でもあった。

西部の自殺から約20日後、水俣病にずっと寄り添ってきた作家の石牟礼道子が90歳で没した。その報に接したとき、これで完全に「戦後」は終わったなと感じた。

私が石牟礼道子さんに最初に会ったのは、早稲田の大隈講堂で開かれた水俣病のシンポジウムのときだった。私もそのシンポジウムの講師の一人として出席した。もう20年も前になるだろう。

石牟礼さんは当時、70代だったはずだが、体の調子はよくなく、たぶんこれが最後の東京になるでしょうと、楽屋で話したことを覚えている。

私には唐牛真喜子、西部邁、石牟礼道子の相次ぐ死が、日本の歴史の暗転を予感させる死だったような気がしてならない。

60年安保が政治と経済の跛行現象を是正するための「空虚な祭典」だったとすれば、高度経済成長の陰で密かに進行した水俣病にずっと寄り添ってきた石牟礼道子は、お祭りの空騒ぎとは対極にある静かな祈りの世界を象徴する巫女のような人物だった。

いま、日本には60年安保のような「空騒ぎ」もなければ、不幸にも水俣病に冒された弱者や死者に寄り添う敬虔な気持ちもあるとはとても思えない。

空騒ぎかも知れないが、豊穣だった時代から、息苦しさばかりが募り、先行き不透明な空疎な時代へ。そうした時代の転換点に、三人の死が並べられるような気がしてならない。

あの三人の死が、日本没落の始まりだった。いまはそう言われないよう祈るばかりである。