西部邁の自殺に影響を与えたかもしれない、「ある女性の死」

全学連時代からの盟友が…
佐野 眞一 プロフィール

西部と唐牛と

同じ北海道出身の唐牛と西部の二人が、唐牛が全学連委員長になる前から親交があったことを知る人は少ない。西部は著書の『ファシスタたらんとした者』(中央公論新社)で、書いている。

〈(1957年の)年末であったか,北大教養部自治会委員長の唐牛健太郎が何人かを引き連れて青年(筆者注・西部)の家にやってきた。青年の兄が共産党に勧誘されたのを固辞し、ついでに「原水爆反対運動」からも身を引くの態度に出たので、運動を続けるように説得しにやってきたものらしい〉

西部の兄は当時、唐牛と同じ北大生だった。唐牛は1957年4月、北大の自治会役員になると同時に日本共産党に入党している。そして翌1958年4月、北大全学連委員長に選出されている。当時、唐牛は日本共産党員だった。

その唐牛が日共に反旗を翻す共産主義同盟(ブント)書記長の島成郎の説得でブント入りし、全学連委員長になることを承諾するのは、60年安保闘争1年前の1959年6月のことだった。

 

唐牛と西部には北海道出身者という以外にもう一つの共通点がある。二人とも左翼的思想に凝り固まった結果、学生運動に入ったわけではない。

学生運動を離れてから様々な職業を遍歴した時代の唐牛と親しかった元「文藝春秋」編集長の堤堯から、こんな話を聞いたことがある。

堤は親しみを込めて唐牛健太郎のことを今でも「カロケン」と呼ぶ。

「あるとき『おい、カロケン、安保条約の条文、読んだことがあるのか』って訊いたことがある。『バカヤロー、そんなもん、読むわけねえだろう、それが答えだ』(笑)。考えてみりゃ、彼にすれば読む必要なんぞなかったんでしょうな。要するに反日共全学連は、ソ連にすり寄る共産党も嫌なら、アメリカに従属する自民党も嫌、つまり根っこのところにナショナリズムがあったんだね」

一方、西部の中学時代、同じ学校の一級下だったノンフィクション作家の保阪正康は「文藝春秋」(2018年3月号)に掲載された対談(「自裁死・西部邁は精神の自立を貫いた」)の中で、こんな興味深いことを語っている。

「西部さんの思想の根源には、私たちは内地からの移民=棄民という強い自覚と、吃音のコンプレックスがあったと思う。学生運動も吃音を直すため、と言っていた」

本当の原因は分からないが

西部の自殺の本当の原因はわからない。西部は4年前に愛する妻を亡くしている。そのことを言挙げして、やはり妻に先立たれた江藤淳の自殺と同じケースだという人もいる。

そうかと思えば、北海道生まれの私の知人は、西部はもう何年も前から恒例の忘年会の席で「来年は必ず青酸カリかピストル自殺します」と言っていたと証言する。

しかし、私には西部の自殺には真喜子さんの死が大きく影響しているような気がする。それを説明するためには、西部と唐牛のただならぬ関係の深さを理解しておかなければならない。

西部は60年代安保闘争を「空虚な祭典」と定義した『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』(文藝春秋)で、唐牛健太郎について最も多くのページを割いている。

西部は皮肉屋らしく、同書のなかでブント全学連を「非行者の群れ」と呼んでいる。60年安保闘争で一躍有名になった唐牛も西部も、左翼というよりは、まさに日本の1960年という時代が生んだ「非行者」には違いなかった。

西部は唐牛健太郎を論じた前掲書所収の「哀しき勇者-唐牛健太郎」で、「青木昌彦と私とで宇都宮刑務所まで唐牛に面会しにいったことがある」という書き出しから始まる文章中に、こんな印象的な場面を書き留めている。

青木昌彦(筆名・姫岡玲治)はブントの理論的支柱といわれた男で、日本人で初のノーベル経済学賞を受賞するのは青木以外にいないといわれていた。だが残念ながら、3年前に77歳で鬼籍に入った。

今にして思えば、西部と青木という二大論客が宇都宮刑務所に収監中の唐牛に面会に行ったのは、全学連に資金提供していた「転向右翼」の田中清玄の事務所に唐牛が籍を置いてまもなくの1962年の夏だった。

西部の文章を続けよう。少し長いが、唐牛と言う男の本質をみごとについた重要な指摘なのでほぼ全文引用する。

〈東北線の車中で、青木は、唐牛が庶子であること、そしてそのことをめぐって「語るも涙、聞くも涙の物語を唐牛の(最初の)奥さんの(津坂)和子さんから教えられた」ということについて語った。和子さんは唐牛の母親のきよさんから知らされたのだという。(中略)

それ以来、時が経つにつれてますます、唐牛がその背に庶子の悲哀とでもいえるものをひそかに負っていると私には見えはじめた。

「唐牛にはそうした生い立ちからくる暗さはなく、生まれついてヒマワリの花のような明るさをもっていた」というような評言を私は何度か眼にした。間違ってはいないが表面的にすぎる観察といえる。酒と革命を愛した男として唐牛を描くのはあまりにもオールド・ボルシェヴィキ流であり、またあまりにも凡庸である。

唐牛は濃い暗闇をかかえて生きていたのであり、彼の示した明るさの半分は天性のものであろうが、あとの半分は自己の暗闇を打消さんがための必死の努力によってもたらされたものである。彼の明るさには心の訓練によって研磨された透明感のようなものがあり、その透きとおったところが私には寂寥と感じられた〉

西部の結論は、「無頼になり切るには知的にすぎ、知的になり切るには無頼にすぎるという二律背反に挟撃されている、それが唐牛の実相である」というものだった。

西部は同じ文章の中で、「唐牛は三つの家族を破壊した人間である」とも述べている。

〈母親のきよさん、最初の奥さんの和子さん、そして次の奥さんの真喜子さん、それぞれの女性が彼を愛し,信じ、許しつづけたと思われるはするものの、世の常識的基準からいって(中略)癒しがたい傷を負ったと思われる。唐牛は家族という最小単位の社会からもずれる種類の人間であった〉

ここまで透徹して唐牛の人間関係を観察した西部は、唐牛没後も夫婦二人で真喜子さんと付き合い、時には海外旅行にも連れ立って行った。西部は真喜子さんの病気見舞いに行った数少ない関係者の一人でもあった。

それほど濃密な関係を持っていたからこそ、西部の自殺には真喜子さんの死が大きく影響していたと思わざるを得ないのである。

西部は真喜子さんの死によって、人生の見えない大きな支えを失ったような気がしてならない。