西部邁の自殺に影響を与えたかもしれない、「ある女性の死」

全学連時代からの盟友が…
佐野 眞一 プロフィール

「一番親しかったのは西部さんです」

慈恵医大に真喜子さんを訪ねてから2ヵ月あまり経った今年1月21日、島浩子さんからお礼状が来た。そこに心に残るこんな一節があった。

〈健太郎亡き後の三十数年を、まだ若かった真喜子はよく耐えたと思います。いろいろな評価があった健太郎を、真喜子は守り抜いたと思いました〉

唐牛健太郎には、様々な評価があった。自分の指揮で人生を誤らせてしまった者たちへの責任感から、自分は一生人の上に立つ仕事にはつかないと覚悟して戦後一切の公務から退いた帝国軍人にも似た立派な日本人だったという評価から、何かというと後輩たちにお説教を垂れたがる単なる酔っ払いの親父という評価まで激しい毀誉褒貶に包まれた。

そうした唐牛健太郎の評価を丸ごと呑み込んで、その名誉を唐牛没後30数年守り抜いたのは、真喜子さんあってのことだった。

 

函館港を眼下に見下ろす外人墓地近くの高台に唐牛健太郎を記念する墓碑がある。そこで毎年行われてきた墓参会に50名近くの関係者が参加するのも、真喜子さんあってのことだった。

この墓参会は、なにも唐牛を英雄視し偶像崇拝するために開かれているのではない。逆に60年安保闘争にノスタルジーを感じる関係者は少なく、「右翼」の鈴木邦男や唐牛の最後を看取った主治医など、真喜子さんを慕って集う者たちが大多数を占めている。

その墓参会の和気藹々たる雰囲気を思い出しながら、島浩子さんの書いた挨拶状を読むと、思わず目頭が熱くなってくる。

前にも述べたが、もし真喜子さんがいなければ、唐牛健太郎の名前などもうとっくに忘れ去られていたことだろう。

驚いたのは、この挨拶状が私の手元に届いた丁度その日、唐牛夫妻と最も親しかった西部邁が多摩川で入水自殺したことである。

真喜子さんに聞いたことがある。

「全学連で一番親しかったのは誰ですか?」

真喜子さんは間髪容れずに答えた。

「それは西部邁さんです。しょっちゅう喧嘩していたのも仲がよかったからだと思います」

真喜子さんの返事には、何のためらいもなかった。拙著の取材で最後に会ったのも、西部だった。

西部の話で一番興味深かったのは、学生運動をやめてからマリファナやハシシ、LSDなどの麻薬を試した時期があったという話だった。その部分を拙著から引用しよう。

〈「自分の身体で幻覚効果を実験したと西部は言うが、安保闘争で逮捕・起訴された案件で、実刑判決が出るか否かの不安を抱えていた影響が背景にあったのではないか〉

これは第二版からの引用だが、初版では「麻薬中毒にかかっていた時期があった」と書いた。

すると西部からすぐ電話があり、「佐野さん、麻薬中毒はないよ」とやんわり注意された。そのとき、随分細かいところまで気にする人なんだな、と意外だったことを覚えている。

このインタビューをする前、西部を二度見かけたことがある。一度目は新潮社近くの寿司屋、二度目は新宿の文壇バーだった。いずれも一人だった。寿司屋では猛烈な勢いで寿司を口に運び、文壇バーでは急ピッチで強い酒をあおっていた。

その姿を見たとき、西部の癒されることのない孤独感と北海道生まれらしい「野生」の荒々しさを見たような気がして、恐怖を感じた。この人はいずれ自殺するかもしれない、そう思ったことを覚えている。