西部邁の自殺に影響を与えたかもしれない、「ある女性の死」

全学連時代からの盟友が…
佐野 眞一 プロフィール

そして静かに息を引き取った

真喜子さんの癌がわかったのは今から2年前だったという。

この話を聞いて軽いショックを受けた。というのは、その頃私の唐牛取材もラストスパートに入り、真喜子さんに一番ぶしつけな質問をしなければならない時期に差しかかっていたからである。

だが、真喜子さんは私のきつい質問にも逃げることなく正直に答えてくれた。あらためて立派な女性だと感服した。

 

ただ一つ気になったのは、真喜子さんが住む市ヶ谷のマンションの部屋が必要以上に片付いていたことだった。

彼女とすれば、すでに「死の準備」に入っていたのかも知れない。いや勘のいい真喜子さんのことだから、医師に癌を宣告されるかなり前から、すでに死の予感を持っていたことは十分に考えられる。

後になってわかったことだが、唐牛健太郎の評伝を書きたいという要請は真喜子さんの許にいくつも来ていたという。

数多ある申し込みのなかで、真喜子さんが私を選んでくれたことに今は感謝の言葉もない。真喜子さんは「この人には会った方がいいですよ」「あの人にも会った方がいいですよ」と言って、連絡先の電話番号まで教えてくれた。

真喜子さんにしてみれば、甘ったるいだけのおべんちゃら本ではなく、きつくても構わないから後世の批評に堪えうるだけの評伝を書いてほしい、という思いがあったのだろう。

こう言うと、何を自分の都合のいい解釈をして、という向きもあるかもしれない。

だが唐牛伝を書くため、真喜子さんに3年近く伴走してもらうという幸運をいただいた私にはそう思われてならない。

私が慈恵医大病院に駆けつけてから3日後の11月22日午前3時20分、真喜子さんは静かに息を引き取った。

真喜子さんは京都の生まれである。京都の女性は裏表があるとよく言われる。

だが真喜子さんに限っては、まったくそういうところのないさっぱりした気性の女性だった。

私にとって真喜子さんは、少し年上の頼りがいのある姉貴的な存在だった。真喜子さんを知る関係者の一致した声を紹介しておこう。

「女性にしておくのがもったいない人だった。男だったら間違いなく街道一の大親分になれただろう」

といって、真喜子さんは男勝りの性格というわけではない。細やかな気遣いができる実に女性らしい女性だった。こんな女なら唐牛健太郎も惚れただろう。そう思わせる魅力ある女性だった。もし、唐牛健太郎が北大同級生の前妻と別れ、真喜子さんと一緒になった経緯について知りたければ、ぜひ拙著を読んでいただきたい。

ただここで一言だけ述べておきたいことがある。学生運動から引退後、唐牛健太郎は南の果ての島から、オホーツク海沿岸の寂れた漁師町まで日本全国を放浪した。

そのとき、周囲がその存在感に驚いたのは、60年安保闘争の輝ける闘士の唐牛健太郎ではなく、真喜子さんの方だった。

1968年、唐牛が北海道・紋別のトド撃ち名人に弟子入りしたときのことを、トド撃ち名人の娘はよく覚えていた。当時彼女は高校生だった。

「父から60年安保闘争時の全学連委員長だということは聞きましたが。そんなイメージはまったくありませんでした。いつも焼酎を飲んでいる酔っ払いのおじさんという感じでした」

当時、唐牛は30歳。60年安保は遠ざかり、輝ける全学連委員長というイメージは、もうすでに過去のものになっていた。

「それよりずっと真喜子さんの方が印象に残っています。とにかく素敵な女性でした。私より5、6歳年上なので、こんな女の人がお姉さんだったらよかったのにって、と思いましたよ。髪の毛を一つにまとめ、綿入れ半纏を着て、下はいつもジーパンでした。履物は桐の下駄でした」

寒風吹きすさぶ紋別の漁師町をジーパンと桐の下駄で闊歩する真喜子さんの姿は、さぞかし目立ったことだろう。公安はむしろ真喜子さんの方を「過激派」の残党と思ったかも知れない。