原発事故から7年、不都合な現実を認めない人々の「根深い病理」

南相馬の精神科医がいま考えること
堀 有伸 プロフィール

自分に不都合な現実をみとめない人々

筆者が「日本的ナルシシズム」という言葉を強調するようになったきっかけがある。

それは、うつ病などの症状が出現しているのにもかかわらず、決して自分の心身の異常という現実をみとめようとせず、逆にそれを指摘する筆者のことを、激しく軽蔑して攻撃するような姿勢をみせた患者や会社にくり返し出会ったことだ。

結果としてうつ病が慢性化して難治化することがあり、時には自殺などの事故の可能性を高めてしまう。

そのようなパーソナリティーの成立には、東京電力のような日本型企業における、1940年体制のシステムで価値が高いとされた健康や献身・忠実などの価値観への過剰な同一化と、そうでない弱さ・不健康といった人間的な側面についての否認と憎悪が大きな影響を与えている。

その価値観を奉じる企業に同一化しなければ、その組織内で生き残ることができないのだとしたら、それに適応せざるを得ないだろう。

そして、それに過剰適応した者が、有利な結果を得やすい日本社会の状況が、数十年間持続していた結果として、2011年の原子力発電所事故が発生したと考えている。

〔PHOTO〕gettyimages

事業を終わらせる難しさ

原発事故後には、反原発運動を中心に日本でも市民活動が盛り上がる機運を見せ、実際に災害からの復興を意図したボランティア等の活動には目覚ましいものがあった。

しかし、原発に関して言えば、再生エネルギーへの転換が進んでいるとは言い難く、一度はすべてが停止された日本国内の原発の再稼働や、さらにはそれを超えて日本から海外への原発の輸出も目指されている状況である。

私はその大きな要因の一つは、反原発運動にかかわる人々の思想的基盤の脆さと、それに由来する社会性の無さが運動への信頼性を失われ、ほとんど影響力を発揮できない状況が出現しているからだと考えている。

残念ながら、一部の反原発運動の主張は、既存の権威への陰謀論とそれへの非難・攻撃にその主張が常に収束し、建設的な議論が不可能となる印象を多くの人に与えてしまっている。

 

現在の社会的に活躍している人々の尊厳を著しく貶めるような主張を行う一方で、その実務を誰が代替するのかという顧慮はなく、もちろん自らがその責任を担おうとする気概も感じられず、結果として自分が実生活において全面的に依存している対象を見下し、一方的にその対象への倫理的な断罪を行っていることへの自覚が乏しい。

1940年体制への過剰な適応と依存が「日本的ナルシシズム」を生み出し、そこからの脱却を目指すことが必要であるというのが筆者の主張である。

しかしその達成は、政治的・経済的に1940年体制に過剰に依存しないような生活様式や周囲との関係性を創り上げることで達成されるべき事柄である。

そのためには、1940年体制が果たしてきた貢献と、現在における重要性を否認することなく、適切に評価することが必須である。

確かに原子力産業の問題は大きい。しかし日本は国際社会の中にあるのであり、他国とのシビアな生存競争の中で生きている。

当然、安全保障についての配慮を欠くことはできないし、経済活動が急激に停滞して他国との関係性のなかであまりに極端に劣位となることは危険であるし、避けるべきことである。

そうであるのに、原発に反対する立場の人の中から、日本が他国からの蹂躙(じゅうりん)を受けても可としてそれを受け入れるべしと安易に発言する人が往々に出現することには、筆者は強い違和感を持つ。

事業は始めることや拡大させることよりも、終わらせることが難しい場合がある。その難しさから目を背けるべきではない。

現実に自分が依存しきっていて、その内部で暮らしているようなシステムの問題をどのように扱うのかが取り組むべき課題の本質である。

単にそれへの不満を感情的に発散するばかりで、必要な業務への取り組みを相手に押し付けたままであるのならば、それは依存しながらその依存を否認するという、心理的には幼児的な退行をさらに進める結果となり、自分の立場が倫理的に優越しているというナルシシズムを、ますます強化することになるだろう。