原発事故から7年、不都合な現実を認めない人々の「根深い病理」

南相馬の精神科医がいま考えること
堀 有伸 プロフィール

日本でも1930年代ごろまでは、直接金融、とりわけ株式による資金調達がかなりの比重を占めていた。なお、間接金融とは、後発工業国に多くみられるもので、銀行を中心とした金融制度である。

日本では昭和初期の金融恐慌で多くの銀行が休業した後に本格化した。一定以上の貸し出しが許認可制となり、軍需産業に融資を行う銀行に巨大な権限が与えられた。

官僚組織もこの時期に変質した。1930年代の中ごろまでは、官僚が民間の経済活動に直接介入することは少なかった。

しかしこの頃から、企業は利潤を追求するのではなく、国家目的のために生産性をあげるべきであると主張する官僚の影響力が強まっていった。

そして1940年に税制改革が行われ、給与所得の源泉徴収制度が導入され、法人税も導入されると、税財源が中央集権化され、それを特定補助金として地方に配るという仕組みが確立された。

もう一度簡単にまとめなおすと、日本中の富を一旦中央に集中させ、それを戦争遂行の目的のために分配するために構築されたシステムが、1940年体制である。

 

世界経済危機から回復が遅れている

終戦をきっかけに日本社会には大きな改革が行われたのにもかかわらず、野口によれば1940年体制は現在に至るまで残存し、日本経済の中核をなしている。

その要因として、日本の政治体制の解体を目指したアメリカの占領軍も、このシステムを十分に捕捉できていなかった可能性を指摘している。

そして、ほとんどの官僚は生き残った。

軍部が消滅し内務省は解体されたが、「大蔵省を始めとする経済官庁は、公務員制度改革によって部分的修正は受けたものの、ほぼ戦前と同様の組織を維持した。人事の年次序列においてさえ、戦前からの完全な連続性が維持された」と説明されている。

維持された1940年体制は、戦後の重化学工業と輸出産業の成長を支え、日本に高度経済成長をもたらした。

しかし、そのような日本の経済体制にも、変化の兆しが認められたことがあった。

1970年代には日本からの鉄鋼・船舶・自動車等の輸出品が増大して貿易黒字が拡大したことへの欧米からの反発を受けて、国内的にも従来の体制を反省する機運が高まり、生活の質や環境が強調され、成長第一主義からの転換が主張された。

しかしそこに水を差したのが、オイルショックだった。

中東戦争の影響で産油国が原油価格を引き上げた時に、中東原油に依存する割合の高かった日本も大きな影響を受けた。日本だけではなくアメリカやイギリスを中心に、世界中の経済が混乱した。

しかし日本は、物価の上昇にもかかわらず賃金上昇圧力が低かったために輸出を増大させることができたので、輸入インフレを軽減することが可能となり、国内インフレが抑制され、好循環が維持できたという。

こうして日本はオイルショックの影響から早期に立ち直ることが可能となった。

野口はオイルショックの経験を通じて、「日本型経済システムはどんな場合にも優れたものだ」という考えが広まったと指摘している。「自信過剰」という言葉も用いられた。

野口は、2007年から2009年に世界経済が経験した危機については、日本がそこからの回復が遅れていることを指摘している。