「差別」とは何か?アフリカ人と結婚した日本人の私がいま考えること

正論の押し付け合いは無力である
鈴木 裕之 プロフィール

差別という「憑き物」を落とす

人種、国民、民族、宗教……私の体験したアフリカは、さまざまな差別の契機を内包し、時にそれが言動として表面化することが多々あった。

「身内」として受け容れてもらった私は、かなりヴィヴィッドにそれを感じることができたように思う。

だが考えてみれば、これは日本とまったく同じ状況ではないだろうか。

黒人系が活躍するのはお笑いかスポーツという現状(人種)、難民も含めた外国人移民への消極的態度(国民)、在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチ(民族)、そして仏教を除くあらゆる外来宗教への違和感。

私は日本以外では、コートジボワールのアビジャン、その次にフランスのパリでの経験が長いが、そこで理解したのは、どこにいっても差別は存在するということだ。それは人間の「常態化」した習性であるようにも見える。

それに対し、ヒューマニズムに基づいた「差別反対」の言説の響きは、あまりにも弱々しい。なぜだろう。

〔PHOTO〕iStock

ここで少し、学問的な説明を差しはさむことをお許しいただきたい。

まず「差別」を「分割」と言い換えてみよう。

ヒトは連続体を分割し、それぞれを差異化し、そこに意味を付与して世界を構成する。

たとえば時間は連続して流れてゆくが、日本人はそれを朝、昼、夜に分け、「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」と挨拶の言葉を使い分ける。

色は光の反射であり、本質的には連続したグラデーションであるが、人間はそれを有限の種類に分けて認識し、さらに赤と白は「祝」、白と黒は「喪」などと勝手に意味を付与する。

この分割の仕方と意味づけの仕方が社会・文化によってさまざまであるということは、文化人類学がたくさんの事例を積みあげながら、実証してきた。

 

次にヒトが動物であることを思いだしてみよう。

多くの動物は群れをつくり、縄張りを持ち、集団とテリトリーを守るために争う。私たちも同じであろう。

ヒトは分割して、群れて、安心する。そして人間集団を分割する際には「われわれ/他者」という基準に沿って、状況にあわせた線引きがおこなわれる。そこに付与される意味は、当然「われわれ=優/他者=劣」ということになるだろう。

私の妻が日本でアフロ・アメリカンと会えば、おなじ「黒人」として共感する。だがアフリカ系とアメリカ系の利害関係が生じる場面では、両者は別ものとなる。

アフリカ人同士でも、西アフリカか東アフリカか、仏語圏か英語圏か、どの国か、どの民族か、果てはどの村かによって群れる範囲は異なってくる。こうした行動様式と心の動きは、きわめて自然なように思える。

問題は何か。

このきわめて自然におこなわれる「分割=差異化=意味付与」のプロセスが、人間集団の分類の際には、しばしば他者を傷つけ抑圧する(極端な場合には殺戮する)行為に結びつく、ということであろう。

そして、現代の差別反対運動は、人類の犯してきた過ちを繰りかえさないために、という善意に基づくものであろう。

そのことに私は何ら異を唱えるものでもないし、アフリカ人と日本人との間に生まれた我が娘の未来のためにも、差別のない世界を望んでいる。ただひとつ思うのは、一方的な正論の押しつけは、あまりにも無力であるということだ。