「差別」とは何か?アフリカ人と結婚した日本人の私がいま考えること

正論の押し付け合いは無力である
鈴木 裕之 プロフィール

結婚する半年ほど前、私はレゲエの調査でジャマイカに赴いた。そこである老舗の音楽グループのもとに居候することになったのだが、私を受け容れるかどうかをメンバーが話しあった時のこと。

円座を組んで議論する長老たち。私は少し離れたところに座り、様子をうかがう。どうも、リーダー格の男が難色を示しているようだ。白い顎ひげを蓄えた眼光鋭い彼を他のメンバーたちが説得している。

すると、すでに親しくなっていたあるメンバーが手招きして私を呼ぶ。「おまえ、アフリカ人のフィアンセがいるんだよな」。私は頷いて、カバンから1枚の写真を取りだす。

このとき見せた写真

白いテーブルの前に満面の笑顔で腰掛ける黒人女性。真っ白な歯並びが印象的だ。そして、その真後ろに立つヒゲ面のアジア人男性。

私たちのツーショット写真をみながのぞき込む。すると、例の厳しい面持ちだった男の顔が満面の笑顔へと変化し、私を正面から見据えながらこう言うのであった。

「ノー・プロブレム」。写真は、まさに通行手形であった。

これは婚約時代のエピソードだが、結婚後はさらに同胞扱いが加速する。

「結婚」という言葉には、彼らと死ぬまでいっしょにいる覚悟を持ち、挙式という煩雑な手続きをクリアし、その後の面倒くさい親戚関係を継続する、という意味が込められている。

彼らは敏感にそのことを察知し、私をリスペクトしてくれる。わたしは、たしかに「黒人の側」の一角に場を与えられたのである。

 

差別は常態化しているもの

その後、私は親戚づきあい、友人づきあいを通して彼らの世界に組みこまれ、内側からその「ニュアンス」を習得していった。そこで印象深かったのは、彼らの世界はさまざまな差別で満たされている、ということである。

まずは、アジア人に対する差別。道を歩けば、子供たちが「シノワ」(仏語で「中国人」)と騒ぎたてる。心ない大人が「ヒーハー、ヒーハー」(中国語の「ニーハオ」の真似)と言いながら侮蔑の色を隠そうともしない。

彼らにとってアジア人はみな同じ顔をしており、一昔前まではアジア人に関する情報はブルース・リーなどのカンフー映画に限られていた。

黒人はみな同じ顔をして裸で踊っている、と思っている日本人がいるように、アジア人はみな中国人であり、奇妙な言葉をしゃべる、自分たち以下の人間であると考えるアフリカ人は多い。

ただし、高度経済成長とテクノロジー大国という「昔取った杵柄」のおかげで、日本人であることがわかると、侮蔑は尊敬へと一変する。