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現代社会を侵食する「遊戯の構造」を検証すべき時がきた

「宝探し」をめぐる考察 第1回
米コロンビア大学を卒業後、ゴールドマン・サックス証券、国外ヘッジファンドを経て、現在、株式会社CTBの代表を務める筆者が、社会のアクティビティにひそむ「宝探し的虚構」を解き明かす連続シリーズ。第1回目は、幼少期のある記憶をたどるところから――。

遊戯のルール

潮干狩りのイベントが催されるからと母に手を引かれ、しかし東京の都心に暮らす母親と幼稚園児が気軽に行ける海などあるはずもなく、デパートの屋上の催事会場に出かけた日のことを記憶している。

会場に設営された砂場は、確かに幼稚園児の体格からすれば途方も無く広大な砂浜に見えたのだから、ビルの屋上に海を模する企画者の意図は、取り敢えず成功していたと言える。

潮干狩りとは、すなわち砂浜に生息する貝を掘り当てる行為なのだと説明を受け、プラスチック製のバケツと熊手が支給されると、宝探しが始まる。

小さな貝が一つ二つとバケツに収まり、新しい遊戯の要領が得られたかのように思えた頃、熊手がなにやら大物に接触した。

それまで発見した貝とはひと回りもふた回りも異なる大きさの塊を急いで掘り起こしてみると、果たして砂の中から現れたのは――今でもその造形がはっきりと眼に浮かぶ――貝ではなく、肌色に近いピンク色のゴムで作られた、ゴジラの人形だったのだ。

 

なぜ貝ではないのか? 潮干狩りでは、貝が出てくるはずではなかったか。

たちまち襲いかかる混乱にかかわらず、周りを見渡せば、催事会場に勤める男女が、一切の混乱を無効化するような誇張された仕草で、ゴジラの人形の発見をしきりに祝福するばかりだ。

催し事にあらかじめ組み込まれていた大当たりを、図らずも掘り当ててしまった事態を徐々に把握すると、なにやら苦い物を嚥下し損ねたような陰鬱な気分が立ち込めてきた。バケツの底で厚かましく貝に紛れるゴジラの人形が、鬱陶しく思えた。

他愛もない幼少期の挿話をここに召喚するのは、なにも、子供は大概にして大人が想像するより賢いのだから、軽んじて接してはならないといった、退屈な教訓的説話に加担するためではない。つまり、ここで問題となるのは、貝とゴジラの入れ替わりによる期待と結果の不一致が、あるいは童心に対する裏切りに相当することではないのだ。

そうではなく、明らかに砂浜という場に帰属しないゴム製の人形は、それが、発見されることを目的として、あらかじめ埋められたものであった経緯を、いささかの恥じらいもなく露呈させてしまう。この点が問題となるのだ。