日本人が大好きな「ハーバード式・シリコンバレー式教育」の歪みと闇

日本では、まったく参考になりません
畠山 勝太 プロフィール

「米国を参考にすべき」は暴論だ

ハーバード大学での体験に基づく米国教育論は、マサチューセッツ州が米国の例外的存在であることが見えていないし、シリコンバレーでの体験に基づく米国教育論も、すぐ隣にいる容赦ない程に隔離された貧しい黒人やヒスパニックの存在が見えていない。

このような米国教育論は、米国教育の極めて一部分しか見ておらず、そのような米国教育を日本も参考にすべきというのは、暴論でしかない。

そもそも、日本人がハーバード大学やシリコンバレーで見る米国の基礎教育というのは、米国のごく限られた上澄みであるが、ある国の平均ではなく上澄みだけを見て、それを日本の平均と比較するというのも、それは比較として成り立っていない。

教育システムは、それを取り巻く社会福祉政策に規定され、社会福祉政策はそれを取り巻く文化・社会・経済的背景に規定される。これらの要因を考慮せずにある教育システムを別の文脈に持ち込んでも、ただ失敗に終わるだけである。

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もう一つ重要なのは、教育の成果物は多様であるという点である。教育経済学の文脈で分析されるものだけでも、知識やスキル・社会性など主に個人に帰するものもあるが、国民統合・市民性・平等性など主に社会に帰するものもある。

数年ある場所に滞在して、そこで見える教育の成果物は、せいぜい個人に帰する部分だけではなかろうか?

それだけを見て論じられる教育政策は不完全なものであるし、教育に社会的意義を求めないのであれば、それはもはや政府の介入をほとんど必要としないものであり、政策として論じる価値すらない。

 

もちろん、日本にも女子教育や教育とICTなど大きな課題を抱える分野がある。

しかし、それを他国の教育政策から学ぶ際には、教育政策関係者には、ハーバード大学やシリコンバレーで見たという類の雑な教育論ではなく、ややポジショントークではあるが、知識と分析スキルを持ち合わせた専門家の議論にもう少し耳を傾けてもらいたいものである。