ストリップ劇場が日本から次々と姿を消した「語られざる事情」

あるベテランストリッパーの回想
八木澤 高明

ファイヤーが私の生きる術

そもそも彼女が花電車芸人としてデビューしたのは、彼女が三十歳の時のことだ。

「ストリップ劇場の踊り子としては遅過ぎで、普通のアイドル系の踊り子なら、そろそろ肩叩きがはじまる年齢でした。今は無くなりましたが、デビューは十三ミュージックという劇場で、従業員もなんでこんなオバハンを使うんだと胡散臭い目で見られました」

体の美しさを売りにする踊り子であれば、あり得ない年齢でのデビューであった。しかし、彼女には花電車という特殊な芸があった故に、常識外れのデビューが許された。

「当時の十三ミュージックと言えば、西のロック座と並んで日本を代表する劇場でした。数千万円のミラーボールが四つも吊り下がっていて、お客さんも満員で、初めてステージに立った時は震えが止まらなかったことを覚えています。デビュー当時は、まだまだ先輩で花電車をやる踊り子さんもいて、その人たちを超えてやろうと必死になって芸を磨きましたね」

 

彼女がデビューした当時、花電車を売り物にする踊り子は十人ほどいたという。それぞれが持ちネタを持っていて、誰ともかぶらないネタが必要だった。

「私が選んだのはファイヤーだったんです。花電車をやる場合、お師匠さんについて芸を譲ってもらったりする人が多かったんですけど、私は師匠がいなかったんで、自分で芸を磨いていくしかなかった。ファイヤーが私の生きる術だったんです」

彼女の話を聞いていると、ストリップ劇場というものが、性だけでなく芸を見せる場所だったことが伺える。日本各地の芸能に精通した小沢昭一は、ストリップを最後の放浪芸と表現したが、まさにその言葉の通りである。

現在のストリップ劇場は日本全国で二十軒に満たず、ファイヤーヨーコのように立派な芸を持つ踊り子ですら、披露する場所が無くなりつつある。彼女がステージを務めることがあるのは、アタミ銀座劇場という、静岡県の温泉地熱海にある劇場である。

熱海は、かつて花電車芸の本場であった。熱海には芸者が多かったことから、座敷芸として花電車が代々演じられてきた。今でこそ、熱海の劇場はアタミ銀座劇場だけになってしまったが、かつては十一軒の劇場がこの熱海にあった。

小ぢんまりとしたアタミ銀座劇場のステージの脇には、額に入った「夢」と書かれた書が残っている。かつて、この劇場専属の踊り子だったいろはさんが花電車芸で書いたものだ。彼女は日頃から書道教室にも通いながら、自身の花電車芸に活かしていたという。

芸に対するプロ意識が高い踊り子であったが、残念ながら2014年に亡くなり、もう二度とステージに立つことはない。

来年をもって平成は終わるが、昭和に全盛期を迎えたストリップは過去のものとなろうとしている。文中で触れた『ストリップの帝王』を綴ったのは、あの時代の空気や人間たちの生き様を何とか残すことができないかという思いもあった。ストリップという、社会の片隅にある性文化も、ひとつの時代から紛れもなく影響を受けていたのだ。