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『サピエンス全史』を途中で挫折した人に教えたい「本書の読み方」

それはまるで村上春樹のようだ
世界的なベストセラーとなった『サピエンス全史』。「なぜホモ・サピエンスだけが繁栄したのか?」という謎を壮大なスケールで解いていく本書の面白さはすでに各紙誌で絶賛されている。ただ、そこでほとんど言及されていない魅力がある。それは文章表現の素晴らしさだ。コラムニスト・堀井憲一郎さんが、読みかけて挫折した人に本書の楽しみ方を伝授する。

文章表現にひたすら感心

サピエンス全史』という本が出たのは2016年である。2018年になってもまだ売れているらしい。ロングセラーである。

私は2017年末に読んで、いろいろと感銘を受けた。

書いてある内容もさることながら、強く感心したのはその「表現」である。

著者のユヴァル・ノア・ハラリ氏はイスラエル人の歴史学者(イスラエル人というのは、なんかとても古風に感じてしまう)。彼の表現が、余裕があって、楽しいのだ。

Yuval Noah Harariユヴァル・ノア・ハラリ氏。1976年生まれのイスラエル人歴史学者。オックスフォード大学で中世史、軍事史を専攻して博士号を取得し、現在、エルサレムのヘブライ大学で歴史学を教えている。〔PHOTO〕gettyimages

著述業者として私はとても楽しかった。文章表現についてひたすら感心したのは久しぶりである。

もちろん著述内容も雄大で素晴らしい。「この本を読まなかったら持てなかった視点」を提供してくれる。そしてそれは表現と一体になっている(月面に残される可能性のあった触手、という表現などがその代表だ。後述します)。

この著書の素晴らしいところは、その余裕にある。文章からユーモアが滲み出てきているところだ。もちろん内容は高遠で雄大なのだが、私は読んでいて何度か声をあげて笑ってしまった。壮大な物語を語りながらも、余裕があるのは、とても素晴らしい。

そのほとんどが「秀逸な比喩」によるものである。

比喩は別段、文学的なものではない。芸術や美のためだけの表現ではない。

私は、ある種のサービスだとおもっている。ひとつはわかりやすくするため。もうひとつは、楽しくするため。そのために比喩は使われているとおもう。

比喩はときに冗談として用いるのだが(私はそうである)、つまり一種のジョークのつもりで使っている。でも真面目な気持ちで読んでる人には伝わらなかったりする。それはつまりすべっていることになるんだけど。

『サピエンス全史』の比喩は、なんだかレイモンド・チャンドラーの文体のようであり、ということは村上春樹のようでもある。

かつてどこかで村上春樹が、自分の文章のユーモアをあまり理解してもらえないのが残念だ、というようなことを言っていた記憶があって(かなり曖昧な記憶で、違っていたらごめんなさい)、やはりそうだったのかと得心した覚えがある。

彼の文章に多用される比喩は、文学表現の未来を切り開くことを目的とした努力ではなく(結果としてそうなることはあっても目標ではないはずだ)、いまそこにいる読者を楽しませたいという気持ちのなせる技なのだ(私の解釈ですけどね)。

そういうポイントにおいて『全サピセンス史』もなかなか秀逸である。芸にたいしてよく使われた「秀逸」という言葉を使いたくなる。

「できました。ハラリさん、秀逸、おみごと」。

まるでハラリさん付きの幇間だけど。

その秀逸なもの、感心した(というか笑った)比喩表現を紹介したいとおもう。

べつだん内容の紹介ではない。ただ、前後の脈絡なく比喩だけ紹介しても笑えないとおもうので、その文脈も説明しながら進めたい。

 

サルに天国を説いても…

さて『サピエンス全史』では、なぜわれわれサピエンスが地球上で他の種を圧倒することになったか、その背景から説明が始まる。

それはどうやら人類が「虚構を信じられる力」を持ったから、らしい。

宗教を持っているのはサピエンスだけなのだ。それはこう説明された。

サルが相手では、死後、サルの天国でいくらでもバナナが食べられると請け合ったところで、そのサルが持っているバナナは譲ってもらえない」〔上巻、p.39〕

バナナを抱えたサルを前に、天国を説いてる姿をおもいうかべると、楽しくなってくる。サルは、ききっと叫んで、説いてる人(頭のいいサル)の顔を引っ掻いてバナナを抱えて去っていくわけだ。ききっ。

サルと人類の差を言い表して見事であるし、バカなことを考えたがる脳の中では、いままで考えたことのない冗談の風景が見えてくる。私はそういうのが大好きです。