女装をした者も…特攻直前、笑顔で写真に写った航空隊員らの「運命」

終戦を迎えられたのはわずか3人だけ
神立 尚紀 プロフィール

一人息子を特攻で失った母の悲劇

10月17日、米軍は、フィリピン・レイテ島の東に浮かぶ小さな島、スルアン島に上陸を開始。18日、敵をフィリピンに迎え撃つ「捷一号作戦」が下令され、二五二空にも、フィリピンへ進出せよとの命令がくだされた。角田さんの回想。

「10月23日、マバラカット基地に二五二空の25機が揃ったので、初めて出撃命令が出ました。その出撃のさい、二〇一空(第二〇一海軍航空隊)の戦闘機隊がわれわれの前に離陸したんです。

隊長らしき一番機の搭乗員は飛行帽をつけていましたが、二番機、三番機の搭乗員が飛行機に乗るとき飛行帽と飛行眼鏡をはずし、整備員に手渡していた。飛行帽の代わりに日の丸の鉢巻を締めていて、これはどうしたことだろうと不思議に思いました。被弾して油が洩れたり、火災を起したりしたら助かる見込みはないからです」

これが、新たに編成された体当たり攻撃部隊「神風特別攻撃隊」の出撃だった。

「あとで聞くと、二〇一空では零戦に二百五十キロ爆弾を積んで敵艦に体当りするということで、あれがその特攻隊、すなわち敷島隊の出撃だったとのことでした。体当り攻撃と聞いたときは、胸がキュッと締めつけられる思いがしましたね。これまでの負け戦を思い出し、来るべきときがきてしまった、そんな感じでした」

昭和19(1944)年10月25日、フィリピン・マバラカット基地から出撃する神風特別攻撃隊敷島隊

角田さんもその後、特攻隊に編入され、直掩機(爆弾を搭載した体当り機――爆装機――を掩護し、戦果を確認する)として、のべ20回も出撃することになる。二五二空の搭乗員たちもまた、次々と戦火に斃れていった。

11月5日、三沢の宴会で女装姿を披露した村上嘉夫二飛曹がマバラカットで、12月11日には、硫黄島で不時着水し、泳いで生還した筒口金丸上飛曹がクラークで戦死。12月15日には、若林良茂上飛曹が、神風特攻第七金剛隊の直掩機として出撃、戦死。

――戦後、角田さんが、群馬県に暮らす若林上飛曹の遺族を訪ねると、商店の裏の六畳ほどの倉庫のような建物に、母親が一人で暮らしていた。

うす暗い部屋には仏壇代わりのリンゴ箱が二つ置かれ、その上に息子の位牌と、白い事業服姿の写真が飾ってあった。驚いたことに、若林上飛曹の母親は、息子が飛行機の搭乗員になっていたことすら知らなかった。

飛行機の搭乗員を目指すには、親の同意書がいる。母一人子一人の若林上飛曹は、飛行機乗りへの夢を母親に反対され、徴兵で海軍に入ると同意書を自分でつくり、部内選抜の丙種予科練に合格した。ラバウル、マーシャルと激戦をくぐり抜けながら、休暇で帰省したときも、母に手紙を書くときも、飛行機の話は一言も出さず、飛行服姿の写真も送ってこなかったのだという。

海軍記念日の宴会の折に撮られた別カット。 前列左から、筒口金丸上飛曹(19.12.11フィリピン・クラークで戦死)、若林良茂上飛曹(19.12.15 フィリピン沖で特攻戦死)、村上嘉夫二飛曹(19.11.5 フィリピン・マバラカットで戦死)、成田清栄飛長(19.7.3 硫黄島で戦死

生きて終戦を迎えたのはわずか3名

昭和20(1945)年1月6日、米軍の先遣隊がルソン島西部のリンガエン湾に侵入、艦砲射撃を開始した。それを迎え撃つため、日本海軍は、フィリピンに残る航空兵力のほぼ全力をもって、特攻隊を出撃させる。

この日、第十九金剛隊の爆装機として出撃した後藤喜一上飛曹機が、爆弾を投下し、体当りすることなく還ってきた。爆弾は敵輸送船に命中したという。だが後藤上飛曹が指揮所に報告にくるやいなや、特攻隊を指揮する二〇一空司令・玉井浅一中佐と飛行長・中島正中佐から激しい怒声がとんだ。

「特攻に出た者が、なんで爆弾を落としたか!」

というのである。後藤上飛曹は、作戦室を兼ねた防空壕に連れ込まれ、二人から四時間にわたって叱責され続けた。そして夕方、こんどは第二十金剛隊の一員としてふたたび出撃することを命ぜられ、そのまま還ってこなかった。

後藤上飛曹は、マーシャル、硫黄島の激戦を戦い抜いた歴戦の搭乗員で、いつもニコニコと笑顔を絶やさない少年だった。三沢基地での宴会の写真、前列左端に笑顔で写っているのが後藤上飛曹である。だが、体当りしなかったことで叱責を受け、防空壕から引きずり出されたときは、別人のようにやつれ果てた姿になっていたという。

米軍の上陸を迎え、翼を失ったフィリピンの海軍航空部隊は、生き残り搭乗員を台湾へ脱出させ、残る地上要員は、食糧も武器、弾薬も決定的に不足する悪条件のもと、慣れない陸上戦闘に従事することになった。

第三四一海軍航空隊司令としてフィリピンに進出していたかつての二五二空司令・舟木忠夫中佐は、極限状態でなにかのことで部下の恨みを買ったらしく、部隊が壊滅状態に陥り山中を彷徨っていた7月10日、マンゴーの実をとろうと木に登ったところを従兵に火をつけられ、燃える草原の上に落ちて非業の死を遂げたと伝えられる。

台湾に後退した搭乗員も、その多くはふたたび特攻隊に組み入れられ、沖縄戦に出撃を重ねた。

昭和19年5月27日、海軍記念日の三沢基地での宴席に参加した、約30名の二五二空隊員のうち、生きて昭和20年8月15日の終戦の日を迎えたのは、角田和男さん、宮崎勇さん、花房(戦後、下村と改姓)亮一さんの3名だけである。その3名も、すでにこの世にない。

冒頭の写真の搭乗員たちのその後。 前列左から、後藤喜一上飛曹(20.1.6フィリピン・リンガエンで特攻戦死)、宮崎勇飛曹長(平成24年歿)、木村國男大尉(19.10.14台湾沖で戦死)、飛行隊長・粟信夫大尉(19.6.24硫黄島で戦死)、司令・舟木忠夫中佐(20.7.10フィリピン・クラークで戦死)、花房亮一飛曹長(戦後没)。2列目右から二人目・桝本真義大尉(19.6.24硫黄島で戦死)、その左の女装姿・村上嘉夫二飛曹(19.11.5フィリピン・マバラカットで戦死)、その左・勝田正夫少尉(19.6.24硫黄島で戦死)、その左のほっかむり・成田清栄飛長(19.7.3硫黄島で戦死)、成田飛長の左上・角田和男少尉(平成25年歿)、角田少尉の上の化粧姿・若林良茂上飛曹(19.12.15フィリピン沖で特攻戦死)、その右・橋本光蔵飛曹長(19.6.24硫黄島で戦死)

一枚の写真。一見、屈託のない笑顔を見せる若者たち一人一人の、短かった人生を思い、それぞれの思いや残された家族のことなどを思うと、たまらない気がする。

だからと言って、

「この悲劇を二度と繰り返してはならない」

と、紋切り型の結論で片づけてしまうのも、なんだか違う気がする。

せめて、

「かつて日本に、戦争の渦のなか、懸命に生き、死んでいった、こんな若者たちがいた」

ということを忘れずにいたいと思う。