女装をした者も…特攻直前、笑顔で写真に写った航空隊員らの「運命」

終戦を迎えられたのはわずか3人だけ
神立 尚紀 プロフィール

硫黄島攻防戦。強敵グラマンF6Fの前に惨敗

二五二空は、6月21日、粟大尉の率いる30機が硫黄島に進出した。

日本機動部隊を殲滅した米機動部隊は、勢いに乗じて、こんどは日本本土からのサイパン救援の動きを封じるため、硫黄島に向かった。

6月24日、500ポンド爆弾を搭載したグラマンF6F戦闘機51機が、硫黄島を急襲する。日本側はレーダーでこれを察知、横空、二五二空、三〇一空の零戦59機で邀撃したが、零戦隊は、F6F6機撃墜の戦果と引き換えに34機を失う。

さらに日本側は、第一次・天山艦攻20機、第二次・天山艦攻9機、彗星艦爆3機、零戦23機、第三次・一式陸攻18機の攻撃隊を敵機動部隊に向け発進させるが、F6Fに行く手を阻まれ、敵艦になんらの損傷も与えることはできず、この日の未帰還機の合計は60機にのぼった。

グラマンF6Fヘルキャット photo by istock

二五二空も、粟信夫大尉、桝本真義大尉、勝田正夫少尉、橋本光蔵飛曹長、名倉誠上飛曹、戒能守上飛曹、小山勇上飛曹、辻忠呂久一飛曹、吉岡恒右門飛長、佐藤忠次飛長の10名を失った。

海軍記念日の宴会から、わずかひと月足らずのことである。

6月25日、木村大尉率いる第二陣16機、30日、角田少尉率いる第三陣13機が硫黄島に進出、ようやく移動を完了する。

だが、7月3日、4日にも硫黄島は激しい空襲を受け、邀撃に発進した零戦隊は、3日に31機、4日に12機を失った。二五二空の戦死者は、3日・石田乾飛曹長、前田秋夫上飛曹、岡部任宏上飛曹、赤崎裕一飛曹、若松千春一飛曹、西川作一二飛曹、川越實二飛曹、勝又次夫二飛曹、成田清栄飛長、沢崎光男飛長の10名、4日・久木田正秀一飛曹、藤田義光一飛曹、平塚辰己飛長、田代澄穂飛長の4名。角田さんは語る。

「石田飛曹長は温厚沈着で、若いのに大人の風格をもった人でしたが、第一次の空戦で上官全員を失ったことに責任を感じているようで、ほとんど口をきかなくなっていました。

搭乗員たちの写真を撮ってくれた西川二飛曹、女装のよく似合った成田飛長、若松二飛曹、田代飛長……みなかわいい10代の少年たちが還ってきませんでした」

橋本光蔵飛曹長は、水上偵察機から戦闘機に転科した人で、空戦経験はなかったが、負けず嫌いで闘志あふれる搭乗員だった。高度2000メートル以下の低空でグラマンと激しいドッグファイトの末、被弾。落下傘降下したものの、硫黄島南方の海に沈んだ。

「橋本飛曹長は結婚していて、館山基地の隊門のそばに奥さんの実家がありました。7月6日、補給のためいったん館山基地に帰ったとき、外出しようとすると奥さんが生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて立っていて、顔見知りの搭乗員をつかまえては、『うちの人はまだ帰りませんか、いつ頃帰るのでしょうか』と聞くので、みんな答えに窮してしまって……。

戦死の公報はまだ出ていないし、報告に行けば硫黄島の敗戦の状況を説明しなければならないし、生まれたばかりの子供を抱いて、おそらく夫の生還に望みを託しているであろう奥さんに話す勇気は、私にはありませんでした」

橋本飛曹長の奥さんには、舟木司令が自ら戦死の報告をしたという。

ささやかな笑いを誘う出来事もあった。7月3日の空戦で被弾、海上に不時着水した筒口金丸上飛曹は、夜の10時頃、ようやく島に泳ぎつき、搭乗員宿舎にひょっこり帰ってきた。ところがそのときには、筒口上飛曹が戦死したと思い込んだほかの隊員たちが「遺品整理」と称し、衣服や官給品を持ち去っていて、着替えもなにもなくなっている。

やむなく、濡れねずみのまま黙って寝たふりをしていると、暗闇のなか、誰かがごそごそと這い寄ってきては持ち去った物を置いていき、朝までには全部、元通りに返されていた。

「分隊士、ここではうっかり戦死もできません。仲間に裸にされてしまいますよ」

筒口上飛曹は角田さんに話しかけ、その場にいた若い搭乗員たちも一緒に大笑いしたという。

硫黄島に続いて台湾でも多くの搭乗員を失う

二五二空零戦隊は、硫黄島でのたった3日の空戦で壊滅した。グラマンF6Fは、零戦を凌ぐ性能を持ち、弾丸の初速が速く弾道直進性のよい12・7ミリ機銃6挺を両翼に装備、強靭な機体強度と防弾性をそなえ、旋回性能においても零戦にひけをとらない。これと戦って勝ち残ることができるのは、角田少尉や宮崎上飛曹のような限られたベテラン搭乗員のみであった。

二五二空はふたたび再建されることになり、新司令に藤松達次大佐が着任、千葉県の茂原、館山の両基地を拠点に訓練を始めた。

10月12日、台湾が米機動部隊艦上機による大空襲を受け、それを迎え撃つべく、二五二空零戦隊に出動命令がくだる。日本陸海軍の航空部隊は九州、沖縄、台湾、フィリピンの各基地を発進、総力を挙げて敵機動部隊攻撃に向かった。世に言う「台湾沖航空戦」である。二五二空も、鹿児島県の国分基地を経由して台湾・台南基地に進出し、攻撃隊を護衛して出撃を重ねた。

台湾沖航空戦は10月12日から16日まで、5日間にわたって続き、攻撃隊は敵機動部隊の空母ほとんどを撃沈したと報告したが、じっさいに沈んだ敵空母は一隻もなく、戦果は幻にすぎなかった。戦果判定の多くは、薄暮から夜間の攻撃で、味方機が被弾、炎上する炎を敵艦の火災と誤認したものだったのだ。この戦いで、日本側が400機の飛行機を失ったのに対し、米軍の飛行機喪失は79機であった。

二五二空戦闘三〇二飛行隊分隊長・木村國男大尉も、10月14日、攻撃隊を掩護して出撃したさい、グラマンF6Fの奇襲を受け戦死した。