女装をした者も…特攻直前、笑顔で写真に写った航空隊員らの「運命」

終戦を迎えられたのはわずか3人だけ
神立 尚紀 プロフィール

二日酔いで痛む頭を抱え、飛行場一周マラソン

翌5月28日は日曜日である。この日は課業の予定はないので、搭乗員たちは、めいめいの寝台で朝寝を決め込んでいた。

すると突然、ときならぬ搭乗員総員集合の隊内放送が流れる。すわ、何ごとかと整列した搭乗員たちの前に、件の先任参謀が立った。

「これより総員、飛行場一周のマラソン大会を行う。かかれ!」

広大な飛行場、その周囲を一周するだけで優に十キロはあるが、否も応もない。突然で理不尽な命令だが、突然はじまって、理不尽に弾丸が飛んでくるのが戦争である。いわば、理不尽に耐えることも訓練のうちなのだ。軍隊に何年もいて戦争をやっていると、理不尽に対する一種のあきらめもある。上官の命令とあらば、やむを得ない。

角田和男さんが、二日酔いでガンガン痛む頭をかかえながら走りだすと、周囲にはやはり、昨夜の酒が残っているのか、蒼い顔をしながら走っている者、うずくまって吐く者が何人もいた。

昭和19(1945)年、三沢基地で訓練に明け暮れている頃の角田さん

ところが、同じように朝まで飲んでいたはずの飛行隊長・粟大尉は、ふだんとまったく変わらない様子で、表情一つ変えず、伸びのあるきれいなフォームで疾走してゆく。

「さすが海兵はちがうなあ。まさに指揮官先頭の海軍精神だ」

みるみる遠ざかってゆく長身の粟大尉の後ろ姿を見送りながら、角田さんは感嘆した。

分隊長・木村大尉と桝本大尉も、粟大尉に続く。その後ろには、予科練出身の若い搭乗員たち。彼らは、少しでも手を抜けば、あとあと大変な罰直(ばっちょく)が待っているので、一生懸命である。少し遅れて、古い下士官や准士官のベテラン搭乗員が、不満たらたらの態度でゾロゾロと走る。軍隊ずれした彼らは、多少怠けても制裁を受けることはないし、こんなことで必死になるのは馬鹿馬鹿しいと思っている。

何キロも走らないうちに、角田さんはビリに近くなっていた。空に上がれば無敵でも、二日酔いには勝てない。思えば、搭乗員になってからこれまで、酒の上での失敗は数知れず、ラバウルでは、酔った勢いで上官を殴り、懲罰を受けそうになったこともあった。

ふだんは温厚篤実、部下に荒い言葉一つ浴びせない分隊士(分隊長の補佐)だが、酒が過ぎるといけないということは自覚している。しかし、わかっていてもやめられない。

 

「これじゃあ、若い連中に示しがつかないな」

と、角田さんは思った。

「仕方がない、隊長や部下たちも走ってるんだ。ビリでもいいから、完走しよう」

マラソンを命じた年配の参謀とビリ争い

そのとき、角田さんの真横を、ドタドタといかにも重そうな走りで追い越していった士官がいた。搭乗員たちは事業服、あるいは草色の第三種軍装の上着を脱いだ、シャツとズボンに飛行靴といういでたちだが、この士官は、第三種軍装に黒い短靴のままである。肩には、金色の参謀飾緒が、跳ねて揺れている。

「先任参謀だ!」

どうして参謀まで走っているのかわからないが、これは、間違っても負けるわけにはいかない。年齢も、参謀のほうが15歳は上だろう。角田さんは必死で抜き返す。するとまた、ヒイヒイ言いながら参謀が前に出る。角田さんが追い抜く。……そんなデッドヒートを繰り広げ、かろうじて参謀を振り切ってビリから2番めで完走した角田さんは、ゴールと同時にぶっ倒れた。

「命じた参謀が、ビリでも完走したのは立派でした」

と、角田さんは回想する。

軍隊の指揮系統でいうと、参謀は司令官を補佐し、司令官の命令を伝達することはあっても、直接命令をくだすことはない。参謀が独断で演芸会を中止させたことに対し、みんなが怒ったのもそのためだった。

統率の筋道から言えば、おそらくこの日のマラソン大会は、汁粉を食いそこなった松永司令官から、参謀を通じて達せられた命令であると考えられる。

圧倒的な航空兵力をもって進撃速度を増した米軍をはじめとする連合軍は、6月15日、サイパンに米軍が上陸したのを皮切りに、いよいよ日本の喉元ともいえるマリアナ諸島への侵攻を開始した。

サイパン、テニアンが敵手に落ち、米軍の新型爆撃機・ボーイングB-29がそこを拠点にすれば、日本本土のほぼ全体が爆撃可能圏内となる。

空母9隻を主力とする日本海軍機動部隊は、空母15隻を揃えた強力な米機動部隊に総力をもって挑んだが、6月19日から20日にかけて戦われた「マリアナ沖海戦」で大敗を喫し、虎の子の空母搭載機がほぼ全滅する。

いっぽう、日本本土からは、横須賀海軍航空隊と、二五二空をふくむ第二十七航空戦隊とで臨時に編成した「八幡(はちまん)空襲部隊」と第三〇一海軍航空隊が小笠原諸島の硫黄島に進出、味方機動部隊に呼応してサイパン沖の敵機動部隊を攻撃することを命ぜられるが、梅雨前線に行く手をはばまれ、ようやく第一陣が進出できたのはマリアナ沖海戦も終わった6月下旬のことだった。