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# 思想 # 文学

もしも天皇が「私の状況は憲法に照らして違憲だ」と言ったら?

あなたを駆動する「物語」について⑧

来年(2019年)4月30日、平成は終わる。終わりが近づくなかで、「平成とはどんな時代だったか」と総括したがる向きも多い。しかし、作家・赤坂真理さんはひとつの大きな疑問を抱いたという。時代の雰囲気が、特定の天皇の在位期間と結びつけて語られることは、そもそも日本史上の例外なのでは……?

平成の特徴は?

平成とはどんな時代だったか?

2017年の最後の月に、そんな主題で話す機会があった。

非常に困った。

とらえにくかったのである。

先行する三元号時代が、くっきりしていた。

日本が近代国家の仲間入りをした、明治
つかの間のモダニズムと文化、大正
戦争へと突き進み、敗戦し、復興して経済成長するまでの激動の、昭和

たとえばそんなふうにざっくりとまとめられる、先行する三元号の時代に比べ、平成にはこれと言った特徴がない。

「不透明な時代」「先の見えない時代」「不安の時代」と言えばそうかもしれない。が、それは消極的な言い方にすぎないのではないか。不透明ならその不透明さは、どこからくるのか。

 

「平成の感じ」を言葉にしてみると…

大きな事件が起きないかというとそうではない。

一人の犯罪者が一度に殺す人の数はどんどん大きくなっていく。

車で人混みに突っ込めば、施設で人が寝ているところを襲えば、あっという間にたくさんの人を殺傷できる。発見されてみれば、いちばん安易な手が実行されたにすぎない。

まるでサイレント・テロリズム。

抵抗する暇のない対象を傷つけるという意味でも、行為とひきかえの要求がないという意味でも「サイレント」な「テラー(terror=恐怖)」。純粋恐怖。

が、それが数も規模も大きすぎて、痛ましさを超えて、悲惨さを超えて、ついにはただの数字としてしか認識できにくくなっていく。

casualties of warという言葉を思い出す。戦争の負傷者、それも付随的死傷者、みたいな意味。死が、個別の死でなく、数になってゆき、数に人々は麻痺してゆく。

ひとつひとつの動機も解明しようとしないまま、もう死刑だけが粛々と執行される。解明しようとでもしたならば、自らの内の空虚さを見てしまうと人々はおそれているのか。

それは「自殺者3万人」と言うのと、奇妙に似ている。それが2万7000人になったら、自殺者減少として、よろこぶべきことである。出生率が、内実を問わず増えればいいのと同様に。交通事故死者も、薬物検挙数も、同様に。

本当は2万7000人でもおそろしく多いし、個々の死がもたらした影響は、関係者にとって半永久的なものだが、そんなことは顧みられない。

そういう規模の人死にが、数としてしか感じられなくなる状況を考えてみる。自殺者統計、交通事故、天変地異、そして、戦争。

それが、「平成の感じ」。

平静な下で、何かが常軌を逸しているけれど、何と言いにくい。それが「平成の感じ」。せめて「何」と言えたらいいのではないか、それが「平成の感じ」。

平成を、静かな戦争、と言ってみたい衝動に駆られる。

しかし、戦争にたとえればなおのこと、何が問題なのか、わからなくて苦しむことほど、何かわからずに何かを憎悪せずにいられないことほど、何を憎んでいるかわからないのに何かを攻撃することほど、そして攻撃して/されてしまった結果と向き合うことほど、しんどい所業って、あるだろうか?

そして、今問題に見えることは、見える時点でもう終わっていて、結果で、その駆動力は、ずっと昔にある。

「戦争」を止めようとしてもなかなか止められない理由も、そこにある。駆動力は、ここにはないからだ。

駆動力を発見しなければならない。

それは、「物語」としてしか、発見されないだろう。

ふと、こんな疑問が頭をもたげる。

元号ごとにそんなにくっきりとした特徴があると思われていることこそが、異常では?

もしかして、今の硬直感と「これ」との間に、関係がないだろうか?