作詞家・松本隆が明かす「あの曲の1行目に、僕が隠した秘密」

2000曲の歌詞を書いて見えた世界
週刊現代 プロフィール

太田裕美という新しい歌手を育てていくなかで「旧芸能界では作れないものを一緒に作りたい」と僕が引きずり込んだのが、長年タッグを組むことになる筒美京平さん。

僕より一世代前の人だったけれど、彼は常に洋楽のヒットチャートを研究していて、いま世界でなにが流行っているのか知り尽くしていたんです。

 

筒美京平さんとの秘話

それで、京平さんと『木綿のハンカチーフ』('75年)を作ったとき、僕は4番まで書いて渡しました。

最後まで聞かないと歌詞の本当の意味はわからないけれど、当時はラジオで1コーラス半しかかからない。だから「もっと短くしたほうがいいんじゃないか」と、京平さんは僕に書き直しをさせたかった。

でもその日、担当のディレクターがなかなかつかまらず、かつ、締め切りまでギリギリだったものだから、そのまま4番まで曲をつけることになってしまった。結果、「いい曲ができた」と京平さんは大満足してくれたんだ(笑)。

ただ、僕は僕で「4番まであっても5番まであっても関係ない」と考えていました。むしろ、途中まで聞けば続きが気になるから結局最後まで聞きたくなるんじゃないかなって。

太田裕美と同じように原田真二もデビューから関わった歌手でした。『てぃーんず ぶるーす』('77年)は、もともと彼が書いたメッセージ性の強いストレートな詞が乗っていたけれど、あえて僕は正反対のことを歌わせたいと考えた。

それまでの男の子の歌詞って、「俺についてこい」という感じのものが多かった。でも、そんな男って、自分を含めて、世の中にあんまりいないじゃない。

実際は、いろいろ悩んでブルーな面を持っていることが多いわけだから。そういった悩み多き少年を、当時まだ10代でアイドルのようだった原田真二に表現してもらおうと思って書いたのが『てぃーんずぶるーす』だったんです。

僕の詞というと、女性アイドルソングの印象が強いかもしれないけれど、イモ欽トリオの『ハイスクールララバイ』('81年)や寺尾聰さんの『ルビーの指環』('81年)のほうが、セールス的には伸びました。

特に『ルビーの指環』は、僕が持っている「風街」というモチーフ('60年代に松本氏が暮らしていた、都電が走っていたころの渋谷・青山・麻布あたりの風景)を歌詞の1行目から使っているから、はっぴいえんど時代からのファンは、「松本隆が本気出してる」って思ったかもしれない。

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実際、これは寺尾さんへの敬愛の表現でもあるんです。寺尾さんはもともと「ザ・サベージ」というバンドのベーシストで、僕が中学3年生のときに、「勝ち抜きエレキ合戦」というバンドコンテストがあって、サベージはどんどん勝ち抜いていった。

それを見て友達と「かっこいいな」なんて話を当時していたんです。だから、学生時代の憧れの先輩から作詞の注文が来たというのは、すごく嬉しいことだったんです。