世界で深まる「中国依存」親日国カンボジアでこんなことが起きている

華語学校・華人コミュニティで見た風景
阿古 智子 プロフィール

20世紀初めには、植民地政府が安価な労働力確保のため華人移民奨励政策を実施し、大量の華人が移住した。都市部だけでなく地方にも多くの華人が移住したが、彼らはクメール文化を積極的に吸収し、クメール人との通婚も進んだ。

独立後のシアヌーク政権時代(1953〜1970)には、華語教育が盛んに行われるようになったが、カンボジア政府がクメール人優位政策を推し進め、主要な職業には現地国籍を持つ人しか就けなくなった。

華人子弟の中には現地国籍を取得する者も出てきたが、それによって、華人とクメール人の境界はより曖昧になった。

現地国籍の取得は容易ではなく、国籍が取得できなかった華人は、公立学校に入学できず、その意味でも、華語学校の重要性が高まった。

 

1970年、北ベトナム軍の南ベトナムへの侵攻を黙認したカンボジアに憤慨したアメリカは、シアヌークがモスクワを訪問している間に、ロン・ノル将軍によるクーデターを支援した。ロン・ノルは軍事政権を樹立し、華語学校の閉鎖を指示した。

1975年、アメリカのベトナムからの完全撤廃が確実になり、ロン・ノル政権が崩壊すると、ポル・ポトがクメール・ルージュを率いてプノンペンに乗り込んだ。

毛沢東に感化され、極端な共産主義を信奉するポル・ポトは、自分を支持する農村部の人間を除く、都市部の知識人を徹底的に殺した。宗教を禁じ、寺院を破壊し、学校を閉鎖し、共産主義の敵だとして、貨幣さえなくした。

まさに、中国で毛沢東が行った大躍進政策や文化大革命と同じようなことが、カンボジアでも行われたのだった。そして、華語教育は再び全面的に禁止され、中国語は使用できなくなり、華人はクメール人と共に農村への強制移住を余儀なくされた。

1979年、ベトナム軍がカンボジアに侵攻し、ポル・ポト政権は崩壊した。これにより、ようやく華語教育の復興に向けた取り組みが始まったが、10年に及ぶ国内の混乱で華語の教材はほとんどなくなり、華語を読めない華人が増えていた。親ベトナムのカンボジア新政府には、華人の動きに警戒感もあった。

1990年代に入ると、カンボジア政府は対華人政策を緩和し、同年8月、国内の華人社団の復活と華語学校の再開を許可した。

カンボジアの経済開放政策が進み、中国からの投資が増大するなか、中国語の重要性は急速に高まっている。華人の多い地区では次々と華語学校が再開し、華語ブームは華人以外のコミュニティにも広がっている。