危篤の父が証券マンのぼくに隠していた「もうひとつの家族と人生」

現役証券マン「家族をさがす旅」【1】
町田 哲也 プロフィール

「熟年離婚」の過去

父は独善的な性格だった。何ごとも自分の考えを通そうとして他人の意見を聞かず、気に入らなければ暴力をふるう。友人は少なく、近所付き合いもほとんどなかった。

世のなかを斜めに見るのはいつものことで、口を開けばまず文句が出てくる。食事の内容、テレビのキャスターの話し方、コンビニの店員の接客態度などあらゆるものに批判が及び、必然的に一緒に暮らす家族が不平につき合わされることになる。

母の小言に何もいえなかったのは、二人が10年前に離婚していたからだった。世にいう熟年離婚で、ぼくの結婚を機に、母が切り出していた。父の家庭内暴力に30年以上耐えてきた母にすると、子どもが独立して思うところがあったのだろう。

かといって二人の関係が完全に断絶するわけでもなく、75歳になった父が、住んでいたアパートの更新がむずかしくなったという理由で実家に転がり込んできたのは3年前のことだった。

母としても、一度は家族として暮らした相手だ。泣きつかれては、無下に断るわけにもいかなかったのだろう。

復縁したわけではないので、家の敷地内にあるプレハブで暮らす形をとることになった。まだパン屋をやっていた頃、工場として使っていた建物だ。

二人の間には簡単な会話はあったが、行き来はほとんどなかったという。たまに留守中に来た宅配便を預かったり、病院への送迎をお願いする程度だ。同じ土地とはいえ別居している母に、父の面倒のすべてを任せるわけにはいかなかった。

 

縛られたこともある

集中治療室の前にある控え室に入ると、母がぼくの顔を見て不安そうな表情を見せた。

「時間を繰り上げて、手術に入ることになったみたいなの」

「いきなり変わったの?」

「準備が早くできたからっていうんだけど、詳しい説明はなくてね」

もともと14時スタートと予定されていた手術が、1時間ほど早くはじまったことから事態の切迫感が伝わってくるようだった。

「どれくらいかかりそう?」

「容体次第だけど、先生がいうには、3時間はかかるんじゃないかって」

「そうか」

ぼくは荷物とジャケットを置くと、母が正面になる位置に座った。

「血圧が下がってからは、ずっと寝てるのよ。熱は38度あるんだけど、意識はあるみたい」

「食欲は?」

「ここ数日はぜんぜんよ。お粥もほとんど食べられなくて、冷たい水を口に含むくらいかな。栄養はもうほとんど点滴を通してね」

「手術が終わるまで、ここで待ってるしかないか」

母がうなずくのを確認すると、ぼくはトイレに行って、気持ちを落ち着かせた。

ぼくにとって、父は憎むべき存在だった。小さい頃から遊んでもらった記憶がほとんどなく、憶えているのは怒られたことばかりだ。家に帰る時間が遅くなったり、勉強をしなかったりすると、殴られてロープで縛られたこともある。厳しいとか躾といった次元を超えた育て方だった。

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成長するにつれてそんな扱いに我慢できなくなると、ぼくも口ごたえするようになった。父にすれば、親に反発する子どもが許せなかったのだろう。

暴力がエスカレートすると、父は家のなかのいすや机を壊しはじめた。母が父に抵抗しないのは、ぼくにとって不思議だった。何をいっても仕方ないと、あきらめていたのだろうか。「お前が謝るしかないんだよ」といって、事態を収めようとする母が恨めしかった。

そんな父が、生死をさまよう場所に立たされているという。憎むという感情は時間が経過する過程で薄まっていたが、和解するまで父とぼくの関係が改善していたわけではない。突然の展開に、自分がどのような感情を持てばよいのかわからなかった。

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