多くの人が直面する、肉親の突然の入院。しかし、駆けつけた病院で、思いもよらぬ「家族の秘密」を突きつけられたとしたらーー。現役証券マンとして勤務するかたわら、『セブン・デイズ』など経済小説を精力的に執筆する作家の町田哲也氏が、実体験をもとにつづるノンフィクション・ノベル。
「お父さんの具合が悪いの。大至急、病院に来られる?」
携帯電話のメッセージを聞いたとき、頭に浮かんだのは、「ついに来たか」という言葉だった。
2017年8月17日のことだった。何日か前から、父の容体が悪いことは聞かされていた。週末の定期健診で内臓に出血が見つかり、救急車で病院に搬送されたという。入院するにあたって、保証人になって欲しいと母に頼まれていた。
「そんなにまずい状況なの?」
「腎臓だと思っていたら、別の場所が悪いみたいなの」
すぐに母の携帯に折り返すと、パニック気味の声が聞こえてきた。
「別のところか……」
「出血がひどいから輸血してるんだけど、どこに傷口があるのかわからないみたい」
「それじゃ、意味ないね。レントゲンじゃわからないの?」
「はっきりしないんだって」
「出血場所をたしかめるために、わざわざ手術をしなくちゃいけないの?」
「血を止めなきゃ、仕方ないからね。この年齢での手術だとどんなことが起きるかわからないから、近くにいる家族は呼んで欲しいっていうのが先生の指示なのよ」
「わかった。あとで連絡する」
ぼくはいったん携帯を切った。今から早退しても大丈夫か、予定を確認しておく必要があった。
タイミングは最悪だった。ぼくは証券会社で、企業の資金調達をサポートする部署に所属していた。昼は同じ部署に異動してきた転入者とのランチが予定されており、午後は13時半から顧客訪問。15時半と17時からは、それぞれ社内ミーティングがあった。
ランチは課のメンバーが出席する予定になっており、自分が抜けてもそれほど影響はない。
しかし訪問する予定の会社は数百億円規模の調達を想定しており、慎重に準備を進めていく必要があった。また社内ミーティングの一つは資金調達の提案書を週明けに提出する予定になっており、責任者として運営を仕切る必要があった。
悩んだ末に病院に向かう決断を下したのは、姉に頼るのがむずかしかったからだ。姉は6月に2人目を出産したばかりで、幼稚園に通う上の子の面倒も見なければならない。
ぼくは病院のホームページで場所を確認すると、関係者に事情を説明した。社内のミーティングは、翌日以降にあらためて時間を調整するしかない。顧客企業への訪問は変更できないので、担当者に対応を任せることにした。
病院は埼玉県のO市にあった。11時過ぎに大手町のオフィスを出ると、病院の最寄り駅に着くのは12時半になる。駅からタクシーで向かうとして、到着は12時40分頃だろうか。そんなメッセージを母に送ると、急いで荷物をまとめた。
父が身体に不調を訴えたのは、8月に入ってからだった。血圧が低下し、身体がフラフラして歩けない。食欲もなく、腎臓病対策のお粥を作っても食べられない状態が続いていた。
もともと腎臓が悪く、食事には気を遣っていた。自営業のパン屋を辞めて10年以上になる。株式の売買をするのが趣味で、一日中テレビやインターネットを見ているような生活だった。
母は都内にある姉の自宅に毎日のように通っては、孫の面倒を見ていたので、相手をすることができなかった。週末に定期検診を控え、何とかなるだろうという気持ちも強かった。
定期健診の日、母の運転する車からどうにか病院まで歩き切ると、父は即刻入院をいい渡された。入院することも想定していたようで、父にさほど驚いた様子はなかった。むしろ希望する病院が盆前の土曜日ということで受け入れられず、残念な様子だったという。
O市内にあるメディカルセンターに入院が決まり、運ばれたのはその日の12時過ぎだった。大部屋が空いていないため個室に入ることになったが、誰もいない環境が逆に良くなかった。母が帰宅後に病院から連絡があり、父が騒いでいると知らされた。
翌日母が見舞いに行くと、父の体調は最悪だった。
下痢がひどく、発熱をしたうえに血圧が低い。情緒不安定で、死ぬと大声で叫び、パニック状態に陥っていた。
母にはなぜ早く来てくれないのかと怒鳴り、窓から飛び降りると騒ぐ。朝から廊下に座り込んで、ジュースが飲みたいといっていたらしい。個室のために誰も反応してもらえず、一人で不安のようだった。
母が来たことで少し落ち着いたが、症状は変わらなかった。貧血がひどいため、予定されていた内臓の検査を早めることになった。
食事と水分補給が禁止され、父は水が飲めないのがつらそうだった。検査の待ち時間が長いことに加えて、点滴の針がうまく刺さらず、腕がパンパンに腫れてしまったのもイライラする原因になった。
「文句ばかりいわれても困るのよね」
ぼくはO市に向かう電車のなかで、母の小言を思い出していた。