なぜ日本人PKO隊員は殺されたのか…警察官「23年目の告白」

真実がいま明かされる
旗手 啓介

衝撃の告白

報告文書を私たちに託した隊長の山崎は、部下の高田が命を落としたカンボジアでの活動が歴史に埋もれている、埋もれさせられていることに、強い憤りを感じていた。自らが語らなければ、歴史から葬り去られるという危機感からだった。そして私たちにこうも告げた。

「この記録も一断面にすぎないから、できるだけ多くの隊員たちに会って話を聞いてほしい」

私たちは、カンボジアに派遣された元隊員のもとに、可能なかぎり足を運んだ。隊員の3分の2は、現職の警察官であり、警察庁から正式な取材許可を得ることができなかったが、退職者を中心に22名の元隊員に話を聞くことができた。

誰もが最初は「話していいのかどうか」逡巡していた。隊員のほとんどが、自身の経験を各都道府県警の同僚はおろか、自身の家族にさえ話してこなかったからである。また隊員同士も互いに古傷に触れないよう、カンボジアでの経験を詳細に話すことはなかった。

みな、「墓場まで持っていく話」と思っていたという。しかし、隊員の気持ちも隊長の山崎と同じだった。「歴史に埋もれさせてはならない」そうした覚悟で重い口を開いてくれた。誰もが「高田の死」と向き合いながら、その後の警察人生を歩んでいた。

 

そして一人ひとりの隊員が克明な記録を密かに保管しており、その量と、その過酷な中身は私たちの想像をはるかに超えるものだった。現地でしたためていた日記、当時普及し始めた家庭用ビデオで隊員自らが撮影した50時間を越える未公開の映像――「戦闘が起こると防空壕に身を潜めるしかなかった」「市街戦そのものの戦場」「私は自動小銃を15ドルで買った」――その一つひとつの告白が、23年後にではなく、もっと早く、世に知らしむべき国連平和維持活動=PKOの現実を伝えていた。

多くの隊員たちが四半世紀もの間、記録を保管し続けてきた理由――隊長の山崎は、日本への帰国直前に部下の隊員全員に文書でこう告げていた。

「小官は、生の言葉で語らなければならない機会を極力控えようと考えています。しかし、他方で、小官に限らず皆さんにも言えることは、初めての警察分野における人的国際貢献に参加した者として、どんなことも記録に残しておくことがその責任であるということです。

(中略)出来るだけ感情を抑え、自分のしてきたこと、人のしてきたことを客観的に文字に残すことが、今後の日本の国際貢献の役に立つということだろうと思います」

山崎自身、帰国後、混乱の中で公に真相を語ることは難しいと予想していた。それでも隊員ひとりひとりが記録に残しておいてほしい。そしていつかその記録をもとに真相を語れる日が来ることを期する。山崎はそう隊員たちに言い残していたのである。

忘れられた土地

なぜ悲劇は起きたのか。

私たちができたことは、可能な限り当時の外交文書や史料を集め、隊員たちの証言や記録を一つ一つ積み重ね、同時に派遣決定に関わった政府関係者や国連の幹部、襲撃された現場にいたオランダ海兵隊員やスウェーデン文民警察官など各国の隊員、UNTACに敵対していたポル・ポト派を筆頭にカンボジアの人々の証言を聞き出し、点を線にし、線を面にしていく作業だった。

2016年6月。私たちはカンボジアの事件現場を訪ねた。殉職した高田警部補とともに武装勢力に襲撃された神奈川県警の元警部・川野辺寛に同行しての取材だった。

川野辺は高田含めて部下8人を率いる現地の班長だった。今でも襲撃事件を夢に見て、突然夜中に飛び起きてしまうこと、夏の花火の音で、あの光景のフラッシュバックが起きてしまうこと・・・・・・。

「あのとき襲撃され高田が命を落としたのは、自分が指揮官とした間違った判断をしたためだったのではないか」と、これまでずっと思い悩み、自問自答を繰り返していた。川野辺はカンボジアを再訪する際の日記にこう綴っていた。

「人々からは二年もたつと、そんな事件があったのかと言われる。

しかし自分たちにとっては23年たっても、昨日の出来事である。

消し去ってしまいたい忌まわしい記憶なのに、少しも色あせずに生き続けてきた――」

川野辺を乗せた車は、首都・プノンペンから北西に400キロ離れたタイ国境に近い村アンピルに向かっていた。鬱蒼としたジャングル、赤茶けた土の未舗装の道、粗末な木造のバラック……あのときと変わらない風景が広がっていた。経済成長著しいカンボジアにあって、アンピルは〝忘れられた土地〟だった。まるで日本の〝忘れられたPKO部隊〟である川野辺ら75人の文民警察官のように――。