なぜ日本人PKO隊員は殺されたのか…警察官「23年目の告白」

真実がいま明かされる
旗手 啓介

自動小銃による攻撃

1990年代初頭の日本は、東西冷戦後の世界情勢の中で国際貢献のあり方が問われていた。1991年1月に勃発した湾岸戦争では、日本は自衛隊派遣を行わず、総額130億ドル(1兆7000億円)の戦費などを負担した。一連の対応で、アメリカを中心とした国際社会から「小切手外交」という非難を浴びることになった。

日本政府に、その〝トラウマ〟を払拭する機会が訪れる。20年近く内戦が続いていたカンボジアも東西冷戦の終結とともに収束に向かい、国連PKOへ動き出す。1991年10月、パリで調印された和平協定によって、カンボジア政府、反政府勢力らが停戦に合意。

この国際紛争の解決のプロセスに、日本は戦後(第二次世界大戦後)初めて参加して一定の役割を果たす。パリ和平協定によって、カンボジアを国連の管理下に置き、民主国家としての基礎を築くために、公正な総選挙を行うことを決定した。

世界第二位の経済大国として、相応の国際貢献を世界に初めてアピールできる絶好の舞台がカンボジアだった。そのためにはPKOで日本は「顔の見える外交」をしなければならない。それが外務省、日本政府の本音だった。

そして国会に出されたのが、PKO協力法案だった。自衛隊の海外派遣は憲法違反ではないかと世論も真っ二つになり、議論が沸騰、紛糾する。衆参合わせて193時間に及んだ審議時間は、ほぼ自衛隊の派遣の是非に費やされた。すったもんだの末、法案は1992年6月に可決・成立し、自衛隊600名が初めて海を渡ることになった。

 

自衛隊の動向が衆目を集める大騒ぎの陰で、武器を携行せず丸腰でPKOの任務に従事する「文民警察官」も派遣されることとなった。急遽、全国の各都道府県警から集められたのが、山崎隊長以下75名の警察官。その多くが海外勤務の経験もないふつうの〝おまわりさん〟だった。

1992年10月、日本文民警察隊はカンボジアへ飛び立った。当初から異例づくめで、隊長の山崎と副隊長以外は、全員匿名での出発となった。PKO派遣への反対の声が大きい中、本人や家族の安全を守るという政府の方針に基づき隊員の名前はいっさい公表されなかったのだ。

そして任務地は、事前には分からず、カンボジアに到着して2日後にようやく国連から提示された。当初は1カ所に10名弱で配置されるという話だったが、実際は9つの州、29カ所に数名ずつ分散配置されることになる。

任地には、国連による総選挙実施に反対し、停戦違反を繰り返していたポル・ポト派の影響力が強い危険な地域も含まれていた。自衛隊が事前に日本政府の度重なる国連への交渉の末、カンボジアでもっとも安全なタケオに駐屯することになったのとは対照的であった。

文民警察官に与えられた任務は、カンボジア警察への助言・指導・監視。期間は、9ヵ月。自衛隊とは異なり、水・食料・電力・住居などすべて自分たちで現地調達しなければならなかった。現地で試行錯誤しながら、日本文民警察隊75名は、カンボジアの大地にそれぞれ溶け込み、独自の国際貢献を模索していく。

しかし、総選挙が近づくにつれ、次第に各地で治安情勢は悪化する。年が明けて93年1月には、シェリムアプ州の日本人文民警察官の宿舎が砲弾や自動小銃による攻撃で全焼、跡形もなくなった(隊員5名は不在で難は逃れた)。

跡形もなくなった日本人文民警察官の宿舎

そして日本帰国まで残り2ヵ月余りとなった1993年5月4日、事件が起きた。

カンボジア北西部タイ国境に近い辺境の地・アンピルに赴任していた日本の文民警察官5名らが、オランダ海兵隊の軍用車両先頭に車列を組んで移動中に「正体不明の武装勢力」に襲撃され、自動小銃やロケット砲によって4人が重軽傷を負い、岡山県警の高田晴行警部補が殺害された(オランダ海兵隊5名も重傷を負う)。

日本政府が派遣したPKO隊員の初めての犠牲者――事件の直後、報道は過熱した。皮肉にも文民警察官という存在に初めて世間の注目が集まった。日本政府は「事件の真相究明を行う」と強調した。しかし、「停戦合意が成立し、戦闘が停止」していたはずのPKO活動の現場で起きた事件の究明・検証は、その後行われることはなく、「犯人」が特定されることもなかった。

隊員たちには発言の機会が与えられることもないまま、事件はいつの間にか人々の記憶から薄れ、23年の月日が流れたのである。