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「自民党秘史」中曽根と角栄の苛烈な闘争の舞台裏を明かそう

歴史に残る政治家たちの肉声でたどる

最近の政治はつまらない

「昔はこうだった」とか「俺たちの時代は」と過去の思い出を語るのは野暮の典型かもしれない。が、それにしてもの感がどうしてもぬぐえない。政権与党として盤石の数を誇る自民党のことである。

ほんの一昔前は政治家の個性あふれる「顔」がしっかり見えた。愛憎渦巻く権力闘争という名のドラマもしょっちゅう展開されていた。今は政策本位で、そんな時代ではないという声も聞こえそうだが、やはり政治は「人」である。

政治はベルトコンベアで進む流れ作業ではない。かつての自民党には猛獣もいれば猛獣使いもいた。知性派もいれば武闘派もいた。優等生の金太郎飴ばかりでは政治への関心はますます薄れる。一番、危険なのは飽きからくる政治の無視である。

田中角栄と福田赳夫、大平正芳と福田赳夫、この対決に三木武夫や中曽根康弘らが加わり、「角福戦争」や「大福決戦」、さらには「大角」対「三福中」など、さまざまな組み合わせで、政治家が入り乱れてせめぎあいを演じていた。

こうした政権争いとは別に、ライバルといわれた者の宿命的な「競争」もあった。

それは初当選の時から始まっている。二世、三世議員ではないので、生え抜き同士のゼロからの戦い。その代表が田中角栄と中曽根康弘。「生年月」まで一緒の稀有な例である。

中曽根康弘は5月27日の旧海軍記念日が誕生日。東郷平八郎が率いた連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で破った記念日で、中曽根にとっても自慢の誕生日である。今年の誕生日は常なる誕生日ではない節目で、何と百歳を迎える。

田中角栄も中曽根と同じ1918年(大正7年)5月4日生まれ。日こそ違うものの、月は同じ5月。死去から15年経ったとはいえ、中曽根の誕生日と同時に田中も生誕百周年を迎えることになる。

角栄と中曽根の「同級闘争」

「マルクスは『階級闘争』を唱えたが、世の中の大半は『同級闘争』である」という言葉がある。会社でも役所でも同期生は常に争い、ポストを得て生き残ろうとする。しかし一方で、他の期の者からはかばい合い、時に同期生の卓越した者を押し立てようともする。これが日本社会の微妙なところである。

実際に中曽根がこの言葉を引用して、田中との「同級闘争」を振り返ったこともあった。1947年(昭和22年)の初当選も同じ、所属した政党も民主党で同じ、当然、年も同じ28歳からの「同級闘争」である。

中曽根氏によれば、ふたりは出会った時からお互いに自我と直感が強く、弁舌たくましく、行動的だったという。中曽根はどちらかと言えば理論的であり、田中は情緒的だった。中曽根は海軍の出身で、田中は陸軍に召集されていた。

この海軍と陸軍というのは二人の特質の“違い”をよく示している。中曽根は戦後まもない頃、伊豆山の「晩晴草堂」に籠っていた徳富蘇峰とくとみそほうをよく訪ねていたという。近世日本国民史」という大著を完成させ、明治、大正、昭和の三代の思想界をリードした碩学である。

その蘇峰が評価していたのは原敬や浜口雄幸で、「このような総理になるにはよほど回り道をしながら修養を積まなければだめだ」という言葉が中曽根の心に響いた。そこで座禅も始め、政治以外の修養を特に心掛けたという。「迂回」の効用である。

 

確かに「迂回」作戦というのは海軍にはよくある。いわば「連合艦隊方式」である。これに対し陸軍は「突撃」敢行であり、中曽根は田中を自己主張の強い「単騎独行型」とみていた。戦時中の二人の出自の違いが互いの政治スタイルの違いにもつながったのだろう。

田中と中曽根の最初の対立は石炭の緊急増産のために提案された炭鉱国家管理法案だった。中曽根は賛成、田中は強硬な反対で、二人が属する民主党の代議士会ではいつも大論戦。やがて民主党が分裂すると、中曽根は野党として残り、田中は吉田自由党に合流する。