平昌五輪前に知っておきたい「ドーピングが今もなくならない理由」

いきすぎた競争主義に意味はあるか
美馬 達哉 プロフィール

反ドーピングのとりくみ

スポーツにおいてドーピングは例外的なものではない。

むしろドーピングの歴史は近代スポーツの歴史と同じくらいに古い。興奮剤はすでに19世紀から使われていた。

とくに20世紀初頭に覚せい剤(アンフェタミン)が開発されてから、それを興奮剤として利用するドーピングが広まった(覚せい剤は、常用性や依存性が問題となる前には、もともと空軍パイロットなどの眠気防止用に合法的に使われていた)。

これに対して、反ドーピングの対策が組織的に世界規模で行われるようになったのは1999年に世界反ド―ピング連盟(WADA)の設立後である。1998年に自転車競技ツール・ド・フランスでドーピングが大きな社会問題となったことをきっかけとしている(フェスティナ事件)。

ロシアのドーピング・スキャンダルは、2014年にドイツの公共放送で、ロシアの陸上競技をめぐる内部告発があったことで露呈した。その後のWADAによる調査の結果、ロシア陸連は資格停止処分となった。

さらに2016年にはソチ冬期五輪(2014)での国家ぐるみのドーピング疑惑が浮上した。五輪からのロシア全面排除は見送られたものの、リオ五輪(2016)への参加は各国際競技連盟の判断に任された。

こうした経緯のなかで、平昌五輪では国としてはロシアの参加不可という形となったのだ。

〔PHOTO〕gettyimages

ドーピングが悪である三つの理由

ここで冷静に考えてみよう。なぜドーピングはスポーツの世界から排除されなければならないのだろうか。

大きく分けて三つの理由がある。

一つは選手の健康に危険があるとのリスク上の理由である。ドーピングに限らず薬を服用したり輸血したりすることにはもちろんリスクはある。

だが、個人の自由が尊重される近代社会では、他人に危害を及ぼさない限り、かなりの程度のリスクをとる選択の自由が認められている。

そもそも、競技スポーツそのものが怪我や事故などと隣り合わせであり、プロスポーツ選手には故障がつきものだ。

そう考えれば、選手本人が健康リスクについて十分に理解していて同意したのであれば、わざわざ国際組織がでしゃばって規制するのは行き過ぎといえなくもない。

これだけでは、ドーピング禁止の理由として根拠薄弱だ。

 

第二の理由は、人間が努力することの価値の切り下げにつながるとの道徳的非難である。これは倫理学では、エンハンスメント/アチーブメント(達成)論といわれる。

つまり、同じ結果の達成でも、医薬品や身体的処置ではなく、自分の行為に責任を持って自発的意志に基づいて節制努力して達成した結果の価値が高いとする考え方である。

だが、結局のところ競技スポーツは、人間の不平等を肯定し勝敗や優劣の結果を競うものであって、アチーブメントや努力を公平に評価することを第一目的にはしていない。強い競争主義の圧力のもとでは、建前的な道徳論は実際の歯止めとして分が悪い。

第三は、ドーピングはルール違反だからという形式的な理由である。

じっさい、世界反ドーピング連盟や国際オリンピック委員会の考え方は、ドーピングの定義についてダメだからダメという点に尽きている。スポーツ精神の涵養より、重い処罰規定による威嚇が進行しているのが現状だ。

ドーピングとして禁止される薬品や方法は、ドーピング禁止表に列挙されたものとして定義されている。裏を返せば、その時点での禁止表のリストにのっていない薬物であれば、競技能力を向上させる効果があってもドーピングではないことになる。