阪神入団から6年連続で奪三振王――。プロ野球の歴史で40年以上破られることのない記録を打ち立てた元祖・怪物は、高校時代からすでに異次元の球を投げていた。
後藤 昨年末、日本経済新聞の連載コラム『私の履歴書』で江夏豊が半生を振り返った内容が評判になりました。
私自身、以前に阪神時代までの江夏の足跡を取材して一冊の本にしていますが、彼の高校時代はやはり面白いですね。
猪飼 我々が、豊と高校生活を送った大阪学院大学高校は、当時はまだ創立間もない新設校でした。豊と尾崎は最初から野球部だったのに対して、私が入部したのは秋口になってからのことです。
尾崎 僕がアイツと最初に会ったのは中学3年の夏でした。大阪学院の練習に初めて参加したときに、ブルペンに入ったらごっつい身体のデカい人が投げている。
すでに白髪がちょっと交じっていて、貫禄が半端じゃない。それが振り返って「お前、ここにくんのか?」とつっけんどんに聞いてきた。
てっきり先輩だと思い込み、直立不動で「はい。その予定ですッ!」と答えたら、「俺もここにしようかな」と言う。まさかあれが同級生とは思わへんかった(笑)。
後藤 中学時代の江夏は、運動は何をさせても抜群で、特に砲丸投げでは近畿地区の中学陸上大会で優勝するほどの逸材でした。
陸上部の顧問に勧められて浪商や報徳学園といった名門のセレクションに顔を出してみたものの、やたら走らされているのを見てやる気をなくし、試合に出られそうな大阪学院に進学した。
尾崎 まあ、結局ウチに入っても、死ぬほど走らされることになるんやけど(笑)。
僕も大阪学院に合格して、入学前の2月にふたたび練習に参加したら、ガマさん(塩釜強監督)から「お前が江夏とバッテリーを組め」と言われました。
豊とキャッチボールを始めてみると、フォームはぎごちないものの、陸上仕込みの足腰から、グイグイ伸びるボールがくる。
グラブごと持って行かれそうになり、ボールを弾いてしまうと、身体に当たる。当時は練習で防具なんてつけないですから、全身がアザだらけになった。
怖くなって、監督に「僕にはアイツの球は捕れません」と宣言して、ポジションを変えてもらいました。それで、「江夏の球を捕れるキャッチャーを誰か探してこい」と言われ、猪飼を見つけてきた。
猪飼 そんな経緯があったのは知らんかったわ。私が入るころには、校内ではすでに「野球部に江夏っていうとんでもない1年生投手がいる」と評判になっていた。
いざキャッチャーとしてアイツの球を捕ってみると、「この世にはエライやつがおるもんや」と思いましたね。あの時点で150km近く出ていたんじゃないか。さらに、右バッターの外角へのボールはナチュラルにシュートする。まず打てないですよ。