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小説家・樋口毅宏『アクシデント・レポート』を試し読み【3】

5年の歳月をかけた作品

気鋭の小説家・樋口毅宏氏が5年もの歳月をかけてこの世に送り出した小説『アクシデント・レポート』。日航ジャンボ機墜落事故、オウム真理教事件、原発・沖縄問題などなど、「日本の何もかも叩き込んだ」(樋口氏談)だけあって、普段小説をあまり読まない方でもドキュメンタリーやノンフィクションを読むような感覚でぐいぐい引き込まれる名作だ。現代ビジネスでその一部を試し読み、いよいよクライマックス!

(第一回目はこちら→http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54021

〝鉄板〟をやれ

「ずいぶん手間取っているじゃないか。新沼クンらしくもない」

生まれてこの方、一度も友人を必要としてこなかった人間が、上質な革張りの椅子に背中を預けたまま、冷笑の視線を投げかけていました。この男にとって必要なのは友ではなく、利用できる人間でした。だとしたら、私は真っ先に排除されると思いました。いっそそうしてくれと心のなかで願いましたが、もちろん口に出す勇気など持ち合わせてはいませんでした。

「弱みのない人間などいない。突け。穿(ほじ)れ。なきゃ作れ。どんどん酒を飲ませて、何でもいいから不祥事を起こさせればいいじゃないか。きみもここに四半世紀いるんだ。伊達にタダ飯を食ってきたわけじゃない。いちいち言わなくてもわかるだろう。母親を除けばSには後ろ盾になるような人物はいない。社会的地位のない人間なら罠に掛けた後も何かとやり易い。Sは毎日会社に通勤している身なんだろう? だったらさっさと〝鉄板〟をやればいいじゃないか」

ここで言う“鉄板”とは、痴漢の冤罪をかけることです。尻を触られたと主張する女、目撃したと名乗る人物、そして取り押さえる男の三人がいれば、冤罪の一丁できあがりです。電車内なら、誰でも容易に犯罪者に仕立て上げることが可能でした。公安伝統の常套手段です。

「またぞろあの婆さんが事故調査報告書から削られた機密の文書と、それを指示した官僚と議員を割り出し、マスコミや野党と結託してひと暴れしようとしているらしい。気がふれてるとしか言いようがない。生まれつき男にモテなくて、ヒステリックな醜女が社会正義に目覚めたら、これほど手に負えないものはない。何とかならんものかね、まったく」

私は授業中に立たされた生徒のような気持ちでした。それよりその日の夜もSと飲む約束をしていたので、頭のなかはつまらない仕事をとっとと終えて、彼と楽しく語らうことでいっぱいでした。

「何とかならんのかと訊いているんだ、さっきから何だその態度は!」

年下の上司から罵声が飛んできます。それだけでなく、顔のすぐ横を物が掠めましたが、それは彼の意図したことではなく、単に外してしまったのでしょう。そうした行為も、二〇〇一年だからまだ許されたことでした。現在だとパワハラとして庁内でも問題になるので、キャリアを気にする上司ほどやらないと思います。すべての行動規範が、出世にあるような男でしたから。

「新沼ぁ、よく聞けよ。Sを嵌めろと指令を受けたのは、あんたが最初じゃない。もっと仕事ができる適任者がいた。篠宮さやかを刺客としてSに差し向けた。ハニートラップだ。日照りが続いているだろうと思ってな。自然を装って出会わせたが、あのカタブツは、ホテルに誘った篠宮を断ったんだ。美人で、巨乳で、若い女からの誘いをだ? 変人にもほどがあると思わないか」

頭のなかが、ぐるんぐるんと回っていました。どうして自分がまだ立っていられるのか、不思議なほどでした。

「ところがだ、手を握ってきた篠宮に対して、あの男はこう返したそうだ。『きみみたいな若くて綺麗な娘さんが、僕のようなおじさんを相手にしちゃダメだよ』。ありえないだろ? 頭がおかしいのは遺伝するものかね。母子揃ってイカれていることは間違いないな。カマ野郎かと思って次にあんたを派遣したわけだが、どうやらそれも違うという。自分のことを聖人君子とでも思っているのか。まさか、そんな奴がいるわけない。人間はみんなドロドロに汚いところを隠し持ってて当たり前なんだ」

「Sは、そんな人ではないと思います」

自分でもカラカラな声だと思いました。上司はいっそう冷たい顔になると、私に手招きをしました。顔を近づけると、頬を叩かれました。

「俺を馬鹿にしているのか」

普段血が通っていない人間が、ふっと顔を紅潮させた瞬間でした。

「どうしておまえのおふくろがあんな立派な、本来ならハイソな人間しか入れないセンターに預かってもらえていると思う? あの施設の介護士の老人虐待を揉み消してやったことで空きがでた。そのおすそ分けを分けてやったのに、あんたは職務も忘れて被疑者(マルヒ)と友達ごっこか。あんたに付けた監視から報告を受けている。この後も会いに行くんだろ。きょう中に何とかしてこい。さもなければ……わかってるよな。代わりはいくらでもいるんだよ、新沼クン」

上司の非情な視線が、私の胸を深々と射抜きました。