沖縄、原発、宗教…日本の「すべて」をあぶりだす問題の書を試し読み

『アクシデント・レポート』【2】
樋口 毅宏 プロフィール

こっそりカバンの中を覗き込むが

「母はむかしから、こうと決めたらやり通す人でした。立派な人でしょう。私も諸手を挙げて賛同したいと思う。ただし、自分の母親でなかったら、の場合です。信念はときに意固地と執着に姿を変えて身近な人間を傷つける。気づかぬところで大きな不幸を招くことがあります」

私はどきりとしました。本当は私が何者かを、知っているのではないか。鎌を掛けているのではないかと訝りました。私は頭の醒めた部分で、Sの次の出方を伺いました。ふたりの間に降った沈黙を破ったのは、やるせない溜め息でした。

「……もう、六年前になりますか。母の偏屈な性格を、より拗(こじ)らせてしまう不幸な出来事があった。それ以降、どうしようもなくなりました。詳しいことは差し控えさせて下さい。それは母にとって途轍もない悲劇だったにもかかわらず、今では逆に生きがいのようなものになっている。それが彼女にとって長寿の特効薬なのだとしたら、好きなだけやらせてあげようというのが私の考えです」

私は後にも先にも、あんなにあきらめた笑顔を見たことがない。

「Sさん、意地悪に聞こえたら申し訳ない。いま、幸せですか」

「ひとくちでは言えませんね」

「こんなことを言ったら失礼だが」

「どうぞどうぞ」

「お母様の面倒を見るために、結婚をしなかったのではないですか」

「そう、かもしれません。そうじゃなかったかもしれません。相手が親だからとはいえ、自分の人生の失敗を他人のせいにしたくはない」

そう言って、マッコリを啜ります。私が酌をしようとすると、彼は小さな声ですいませんと言って器を向けました。それからまた唇にあててから、徐(おもむろ)にこう言ったのです。囁くような声でした。

「なんであなたにこんな身の上を話しているのでしょう。どうもあなたには話しやすかったようです」

私もです。本当はそう言いたかった。だけど胸がいっぱいで、言葉を続けることができなかった。

「もうこんな時間か。お会計をお願いしましょう。割り勘でいいですか」

「いいえ、私が誘いましたから」

「いえ、そうなると私が次に誘いにくくなる。日曜はたいていあの公園にいますから、また声をかけてやって下さい」

「遠慮なく。そうさせてもらいます」

「じゃあやっぱり半々にしましょう」

「いいですか、お言葉に甘えて」

「はい。きょうは久しぶりに、楽しいお酒が飲めましたから」

そのときの、Sのニコッとした顔を、私はいまもはっきりと思い出すことができます。

私とSは電車に乗って、他愛のない世間話をして、笑顔で別れました。後になって、あんなことを言って自分のことを嫌いになっていないか、鼻毛が出ていなかっただろうかとか、妙に気になりました。断っておきますが、さきほどさやかの話をしたことでもおわかりのように私は異性愛者です。しかしその夜は終わるのがたまらなく寂しかった。

そして、今から話すことで、私のことを汚い人間だと、どうぞ軽蔑して聞いて下さい。

酒席の途中、Sがトイレに立った際、私はこっそりと、彼のカバンのなかを覗き込みました。

わかっていたことでしたが、銃刀や薬物の類いはなかった。ましてや漁色家や変態と露見するようなブツもなかった。いっそ入っていてほしかった。「あんなにいい人ぶっているが、実はこっちが隠された素顔なのだ」と、安堵させてほしかった。人間の正体を見た気にさせてほしかった。私が彼にがっかりしたのは唯一、このときだけでした。

その後、私は何度も、Sと酒を飲みに行きました。日曜だけでなく平日も声をかけて、新大久保で飲み明かすのです。最初のうちは生理的に違和感があったあの街が、キムチやチヂミを食べていくうち、次第に好きになっていきました。Sのことは、ますますです。歳を取ってからの友人は宝だと言いますが、本当にその通りですね。あんな落ち着く感情は久しくありませんでした。もっとも彼が私のことを、友達と思ってくれていたかどうかはわかりませんが。

今となっては、確かめようもありません。

〈気になる続きは明日公開!〉

昭和、平成、男女、黒幕、政府事故調査委員会、文化芸能、マスコミ、宗教、沖縄、そして原発…。日本の「すべて」が炙り出される警世の書。