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『騎士団長殺し』だけじゃあらない!2017年の日本小説ベスト12

年末年始にぜひ読んでほしいオススメ本

今年は春樹旋風&地方小説がトレンド

今年もやってまいりました年末ジャンボベスト。国内、海外の小説をたっぷり12作(1ダズン)ずつご紹介するビッグな企画です。

さて、今年の国内小説といえば、7年おきに大長編を発表すると言われる村上春樹の『騎士団長殺し』が出版され、騒ぎを巻き起こしました。それにしても、あれは今年の2月なのですね! なんだか、はるか昔に思われます。詳しくは、以下を読んでいただくとして、とにかく上下巻で初版130万部、今年いちばんのビッグタイトルに違いありません。

ほかに小説の潮流というと、ここしばらくAIや遺伝子操作や人工生殖やタイムワープといったSF的要素の導入が盛んでしたが、今年はやや落ち着いた感があり、地方を舞台に、方言を使った小説が、とくに新人作家に目立ちました。ほんと、地方流行りです。芥川賞受賞の沼田真佑『影裏』(岩手)、古川真人『四時過ぎの船』(福岡)、若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(語り手が東北出身)、佐藤厚志「蛇沼」(宮城)などなど。

また、LGBTの要素をさりげなく作中に織りこんでくる作品が目につきます。ことさら問題化せず当然のものとして描くところに、むしろ問題提起があると言えるでしょう。上記の『影裏』川上弘美の『森へ行きましょう』高橋弘希『日曜日の人々(サンデー・ピープル)』松浦理英子『最愛の子ども』などの話題作にも、同性愛やトランスジェンダーが描きこまれていました。

それから、昭和の風景の記録ということもあるのでしょうか、アパートや団地など、昔ながらの集合住宅を舞台にした群像劇に、傑作が続いています。長嶋有『三の隣は五号室』(刊行は2016年)、滝口悠生『高架線』柴崎友香『千の扉』など、お勧めです。

では、だいたい刊行順で12作をご紹介します。

 

ベテランが豊作な一年

1 小川洋子『不時着する流星たち』KADOKAWA

不思議で、むごくて、温かい10篇の短編集です。 

裁縫箱を武器に誘拐犯と戦う少女、どこかにいるはずの自分と同種類の人々、世界の隙間に落ちた手紙、耳から脳に入りこんだ口笛虫、蜘蛛の巣で書かれた文章……。

わたしも子どものころ、こんな物語世界を頭のどこかに持っていた気がします。でも、それらはいつのまにか掌から零れ落ちていった。そうした夢が目の前に甦ったかのようで、眩暈がします。

各編の最後に、物語の「火種」となったらしい人物や史実などの簡潔な紹介があります。グレン・グールドやエリザベス・テイラーなどの超有名人から、一般には知られざる作家や、乳母にして写真家なども。

10篇をつなぐのは、「秘めやかさ」。登場人物たちだけが分かち合う秘密、それを読者もそっと覗き見る。しかし夢は残酷にも覚めるのです。影と日向、始まりと終わり、境のないたゆたいのなかに、破調と別れの兆しは突如として顕れます。失われたものへの哀悼と、喪失の甘美さに充ちたオマージュ作品集です。

2 村上春樹『騎士団長殺し(第1部 顕れるイデア編)(第2部 遷ろうメタファー編)』新潮社

新刊が出れば、色めき立つのは日本だけではありません。今回もアメリカの有力紙「ニューヨークタイムズ」に、「東京の村上春樹ファン 謎めいたタイトルの新刊入手のため書店に殺到」という見出しの記事が出たほどです。

さて、超のつくこの話題作、井戸や通路や超越的性交渉や神秘的美少女や小さな人などなど、過去作から続くテーマとモチーフの「さび」を総動員した村上文学の集大成。ちなみに、わたしは「春樹版『微笑がえし』(キャンディーズ)」と呼んでおります。三人称文体から「私」という成熟した一人称に回帰したことも好評でした。

しかも作中には、村上春樹が愛してやまない小説『グレート・ギャツビー』の構図が見え隠れし、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を髣髴させる美少女も登場しますよ。

主人公の「私」は36歳の肖像画家。妻はよそのイケメンとくっついて離婚を宣告、「私」は高名な日本画家の山荘を借りて一人暮らしを始める。絵画教室の生徒のすてきな人妻たちとお付き合いしつつ、あるとき屋根裏で「騎士団長殺し」と題する画家の作品と出会い、ここから怪異な現象が生じはじめる。

今回も、「私」はワンダーランドで「根源的な悪」と「心の闇」に対峙していくことになります。「私」はダークサイドから戻ってこられるでしょうか? 主人公は作中で四枚の絵を描きますが、これらの絵の中には、村上春樹自身の肖像も描かれているかもしれません。また、男性の「親になりたい願望」が描かれているのは、作者の加齢とも関係あるようです。

3 多和田葉子『百年の散歩』新潮社

多和田葉子流ことばの「すずろ歩き」、言語的遊歩ぶりがいかんなく発揮された書が、『百年の散歩』です。「マルティン・ルター通り」「プーシキン並木通り」「マヤコフスキーリング」など、人名を冠したベルリンの10の通りを歩き、さまよい、横道に逸れ、迷子になり、ときおり店屋や飲食店に入ります。たとえば、こうです。

「わたしは、黒い奇異茶店で、喫茶店でその人を待っていた。カント通りにある店だった。/店の中は暗いけれども、その暗さは暗さと明るさを対比して暗いのではなく、泣く、泣く泣く、暗さを追い出そうという糸など紡がれぬままに、(……)『おつまみ』という概念はなく、おつまず、つままず、つつましく、きつねにつままれ、つまらなくなるまで話し続けた。」

言語連想、ダブルミーニング、地口、洒落などなど、ことばは自在にフラヌリ(漫歩)します。フランツ・ヘッセルは「散歩とは一種、道を読み解くことだ」と言ったそうですが、本書では、道を歩くほどに、過去と現在が溶けあって、ベルリンのかつての壁が甦り、語り手の身体は幼児のように縮んだかと思うと、移民問題に関わる「立ちション事件」が語られたりします。

「わたし」は名前のない謎の「あの人」をずっと待っています。それは、作者の想い人かもしれないし、ゴドーのような何かに読み換えもできるし、読み解かれなくても一向にかまわない。名前から自由であるとはそういうことでしょう。

海外小説編でご紹介しているソルニットの『ウォークス 歩くことの精神史』と併せ読みをお勧めします。(※海外小説編は12月30日公開予定です。)