芥川賞候補になった私を「外国人枠」と雑なくくり方をした人たちへ

“あの子”たちに宛てて私は書き続ける
温 又柔 プロフィール

「アドバイス」を素直に呑み込めない

そのように嘆く私に、

「それなら、台湾人という出自に頼らず、もっと普遍的なテーマで勝負してほんとうの実力を見せつければいいんだよ」

とアドバイスする人がいた。ひょっとしたら、外国出身であることを売りにせず、という言い方だったかもしれない。

また別の人は、

「あなたが取り組んでいるアイデンティティとかルーツといったテーマは、ごく限られた人のものだから、多くの人の心に届く小説が書きたいのであれば、もっと万人に開かれたテーマに挑むべきだ」

と言った。

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日本の文学事情をよく知るかれらは、小説家としてもっと成長したいと望む私に対し、善意からそう言ってくれているのだった。しかし私は、一見もっともらしく聞こえるこの「アドバイス」を、素直に呑み込むことができない。

この言い分では、日本語で書かれた小説の読者として想定されるのは「日本人」に限られているように聞こえる(ここでいう「日本人」とは、代々日本人という家系に育ち、日本国籍を持ち、日本語を母国語とし、日本列島内に居住していて、「日本人」といえば自分たちと同じような存在に決まっていると思っている人たちのことだ)。

「万人に届く小説」=「日本人の共感を得られる小説」

という図式に見える。

 

万人=日本人の共感を得たいのなら、台湾にルーツをもちながら日本で育ったことにまつわるアイデンティティの揺らぎといった閉じられた問題にこだわって書くのはやめて、もっと普遍的なテーマに取り組みなさい。そうすることによって、ほんとうの実力を見せつけなさい。そうしない限り、あなたは永遠に「外国人枠」とみなされる……

そういうことならば、受けて立つと思った。

私は台湾でうまれて、物心のつくかつかぬ頃に日本に渡ってきた。そういう意味では確かに私は、単なる日本人ではない。無理に定義しようとするのであれば、限りなく日本人に近い台湾人なのだ。そして私は、自分にとってのこの現実に根差しながら小説を書いてきたつもりだし、書いていこうと思っている。

「当事者ではない」と自称する者にとっては、「アイデンティティ」だの「ルーツ」だのといった閉じた問題に囚われていて「普遍的ではない」と一蹴したくなるものだとしても私は、それを追究することが私にとって必要である限り、あえてそこから遠ざかることはしたくない。