芥川賞候補になった私を「外国人枠」と雑なくくり方をした人たちへ

“あの子”たちに宛てて私は書き続ける
温 又柔 プロフィール

「さしずめ、外国人枠、といったところか」

3ヵ月――それでも短いほうだと聞く――の間、単行本化は永遠に見送られる可能性も少なからず覚悟していたので、本になるのが確実となり、私は安堵した。

本にさえなったのなら、いつか必ず、“あの子”にも読んでもらえるはずだ。

“あの子”とは、私がいつも思い描く、私の小説の架空の読者である。

私の“あの子”たちもまた、かつての私のように、自分にとって、ほんとうに必要なことばを切実に求めている。そんなかのじょやかれが、私の書いた本を手にし、「これだ!」と歓喜する……私の、書きたい、という思いは、かのじょやかれに、読まれたい、という思いと常に一緒だ。

書籍化が決定しただけでも充分、この賞にノミネートされたことの“恩恵”に浴したと私は思った。受賞しようとしまいと、私がこれからも小説を書き続けることは確実だし、そういう意味では今までと何ら変わりがないとも思った。

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けれども私が思う以上に、日本で最も有名な文学新人賞の影響力は大きかった。

家族や親戚をはじめ新旧の友人・知人がとても喜んでくれたし、小説を書き続けてきた私を誇ってくれた。紅白歌合戦への出場が決まった歌手に対する調子で私を大袈裟に祝福する者もいたし、勝てるといいね! と冗談ではなく本気で言っていた人もいた。

何よりも候補の一つに選ばれた作品の著者として、文学を中心とした分野(業界)では、少なくない人たちが自分に注目していると感じる出来事が多々あった。それは私にとって、一人のささやかな作家としての自分が、現在の日本の文学業界でどんなふうに位置付けられているのか、より正確に認識させられる経験でもあった。そしてそのことは、必ずしも良い興奮ばかりを私にもたらさなかった。

たとえば、何気なく捲った新聞に自分の名前があるのを見つける。私の作品が芥川賞にノミネートされたことについて言及しながら、

「さしずめ、外国人枠、といったところか」

と書いてある。

目の前が真っ白になった。それから、動悸が激しくなる。

 

そんな枠が、あるの?

そして、私はそこに該当するの?

日本人ではないから、外国人だから、私は芥川賞の候補になれたの?

……そもそも候補作となった作品で私は、台湾や中国にルーツをもちながらも幼少期から日本で育った人物たちを描き、日本人と外国人を隔てる線の曖昧さを表現したつもりだった。それを読んだうえでもなお、私のことを「外国人」と断定する者がいるという事実に、私はショックを受けた。

あるいは、作品の内容は関係ないのかもしれない。

私の国籍や姓名、来歴が判断材料になっている。