キリスト教伝来以来の日本のクリスマスをずんずん調べ、『愛と狂瀾のメリークリスマス〜なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』を上梓した堀井憲一郎さんに、調査で印象に残った「戦前昭和のクリスマス風景」を点描してもらった。
日本のクリスマス、いろいろなこぼれ話、戦前編です。
昭和初期にもクリスマスは盛んだった。
昭和4年1929年12月25日の新聞広告にこういうのがあった。
「久能木パーラーのクリスマスサービスとスペシャルコーヒーの宣伝」
「二十五日クリスマス当日来店のお客様にはお土産にお菓子を進呈。久能木パーラーはマキナエスプレス設備し、独特の配合と挽立の香り高いスペシャルコーヒを一杯毎に入れコーヒ通のご賞味を博しています。ホントに御美味しいコーヒの久能木パーラー」
久能木バーラーは日本橋室町にあったお店。
クリスマスにこのパーラーに行くと、お土産にお菓子をくれる、というからかなり豪気な話である。
この年は10月にウォール街の株価が大暴落して、世界恐慌が始まった年として覚えられているが、新聞紙面から受ける印象は少し違う。
「コーヒ」はかなり高価な飲み物だったのだろう。ドトールとは違う。いまでも銀座の喫茶店で1杯1500円の店があるが(かつてありました。最近行ってないので現存してるかどうかわからない)、それぐらいの感覚のお店だったんだとおもう。
このころ昭和初年は、家庭欄でもクリスマスはこう過ごしませう、というマニュアル的な記事が多い。おそらく一般家庭でもクリスマスを祝うことが盛んになっていったからだろう。
だから何となくおかしな部分も出てくる。
ほとんど揚げ足取りになるが、少し紹介する。
昭和6年1931年の家庭欄の記事。
「近づくクリスマス かうして祝いませう 本格的な祝い方の順序」
これはまずクリスマスツリーについて説明している。
最近は欧米でも室内に大きなツリーを樹てる豪奢な飾りかたは見られなくなった、と書いてある。新聞にそう書かれたら信用するしかない。
「日本の見越しの松といつたやうなところに植え込んである前庭の木かヒバの木に赤とか青とかの豆電球をつけて」賑やかに飾っているらしい。
なんか、いま読んでいると、本当なんだろうか、とおもわなくもない。
見越しの松、という表現がまったくクリスマスと似合わない。欧や米にも見越しの松があるのか、まあ、あれは風情があるからな、と勘違いするお父さんが続出していそうである。そう想像したら、とても楽しくなった。
子供が寝静まったあとにプレゼントを置く。翌日は昼に「クリスマスヂナー」をいただく。「もちろん七面鳥などをたべますが(…)子供のよろこぶ色取の奇麗な料理を選ぶのが普通で、このテーブルには二銭三銭位の安いお菓子などをまいておいて座を賑わす」と書かれている。
駄菓子をまいてたんだろうか。七面鳥を食べるのが当然だったようだ。ケンタッキーフライドチキンがないと、なかなか大変そうだ。
「お昼に沢山のご馳走がありますから夜は簡単にすませ、家族そろってトランプやいろいろな遊び、ダンス等に打ち興じ、七歳八歳の子供さんも皆と一緒にレコードに合わせて踊ったり、唄ったりして夜が更けるまで遊び疲れて」それでおしまい。
子供のうちからクリスマスにはダンスに打ち興じている。この子たちが大人になったらそりゃダンスホールで騒ぎますね。
これが昭和初年の家庭のクリスマス風景。
ただ、そこそこ余裕のある家庭(レコードと蓄音機を持っているくらいのレベル)の風景ですね。落語に出てくる〝百軒長屋ガタガタ裏〟では(ほぼ貧民窟です)こんな過ごし方はしていないとおもう。