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# 歴史

かつて富山と福井は「石川県」だった!嗚呼ややこしや、北陸の歴史

いまはこんなに細長いけれども

東京の75万人も上回る人口

現在、日本で最も人口の多い都道府県が東京であることに疑いの余地はない。日本の人口は、関東から北九州にかけての太平洋ベルト地帯に集中しており、中でも首都・東京の人口は増加の一途をたどってきた。

ところがひと昔前は、日本一、人口の多い都道府県は東京ではなかった。石川県だったのだ。1880年の石川県の人口は183万4000人。当時の東京府の人口が108万4000人であったから、それよりはるかに多いことになる。

日本海側の北陸地方の一県になぜ人口が集中していたのか。当時、明治政府は盤石な中央集権体制を確立するため、廃藩置県後も、全国規模で府県の統廃合を行っていた。そして、1876年4月に富山県を、同年8月に福井県を、石川県に併合させた。結果、石川県の面積は1万1518㎡と、現在の面積の3倍近くになり、ゆえにそこに住む人の数も多くなったのである。

しかし、こうした状況は長くは続かなかった。各地域は、風土や人情、習慣の違いから、たびたび対立し、石川県政を混乱させた。まず越前が分県運動で盛り上がった。石川県令も混乱を回避するため、越前の独立を容認。越前単独では、財政的にみて一つの県として認められない可能性があったため、隣接する滋賀県から若狭三郡および敦賀郡を譲り受けて、福井県として独立した。

越前の住民たちは諸手を挙げて喜んだが、面白くないのは滋賀県だ。若狭が削り取られたことによって、滋賀県の規模は縮小、京都府に併合されるという話まで出た。結局、若狭の滋賀県への復帰は実ることなく、現在に至っている。

 

旧富山県側でも税負担とその配分を巡る不公平さから住民の不満がくすぶり続け、やがて分県運動へと発展、1883年に晴れて独立を果たした。こうして、石川県は南北に細長い小県に戻り、結局、人口も73万5000人と激減した。

行政上の境界線に過ぎない県境。しかし、そこでは様々な人々の思惑が交差していたのだ。(羽)

『週刊現代』2017年12月30日号より