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初詣参拝者数「日本一」明治神宮の森をつくった男たちの挑戦

「新しい聖地」はこうして生まれた

毎年、初詣に300万人以上の参拝者が訪れる明治神宮。それをとりまく森は、まさしく東京都心に空いた巨大な「緑の穴」だ。足を踏み入れれば、思わず都会にいることを忘れるほどの荘厳さと静寂に包まれる。

このほど人類学者の中沢新一氏が、ライフワークである「アースダイバー」シリーズ最新刊『アースダイバー 東京の聖地』を上梓した。2020年東京五輪の会場としても注目される神宮エリアを、100年前に造営した男たち。彼らが神宮の森を通して、後世の日本人に伝えたかった思想とは? 本書より特別公開する。

京都か、東京か

明治神宮がつくられたのには、つぎのようないきさつがある。

明治45(1912)年7月30日、明治天皇が崩御された。まだ59歳の若さであった。

明治天皇は生前から、めったなことでは京都に戻ることもせず、東京で政務に励まれていた。そういう天皇の姿を見ていた東京市民は、自分たちが敬慕していた天皇が亡くなられたら、当然その御陵は東京につくられるものとばかり思い込んでいた。

ところが御崩御の直後に宮内省から発表されたのは、御陵が京都の伏見桃山に築かれることが、天皇の生前からすでに決まっていた、という驚きの内容であった。ほんとうは自分たちの東京よりも、京都のほうを愛しておられたのか。これには東京市民も、大いにがっかりした。

しかし彼らはすぐに気持ちを切り替えた。ご遺体を納めた御陵は京都でよしとしよう。東京には明治天皇の御霊を奉斎する神社をつくるほうがよい。下々の者は御陵には近づけないが、神社なら誰でもお参りができる。そのほうがよほど市民に親しまれようというものだし、明治天皇の御霊もよろこばれよう。こうして御霊神社の創設をめざす運動が、市民の間に燎原の火のように燃え上がっていった。

 

そこは森でなければならない

御崩御の直後から、市民たちの間に、明治天皇の遺徳(聖徳)を讃える、なにかの記念物を東京につくるべきだという声が、自然発生的に生まれた。それは裏を返せば、自分たちの生きている時代のアイデンティティの表現物が欲しい、という市民たちの気持ちのあらわれである。その声は、新聞を拡声器にして、たちまち大きな声となって広がっていった。

政治家も心を動かされた。府議会の議員たちは、有力者へのアタックを熱心に始めた。ほどなくして、産業界の雄・渋沢栄一をリーダーとする「明治神宮奉賛会」が結成された。財界と政界を一体とする大プロジェクトが、動き出した。しかしこのプロジェクトは、はじめから「下からの支え」によって動かされていた。明治神宮を創出したのは、市民の力なのである。

「聖徳」の記念物をなににするか、またそれをどこにつくるか、ということで、市民を巻き込んでの議論が沸騰した。西洋ではこのような場合、銅像をつくって記念とするものだ、と主張する開化派もいた。美術館をつくるのもいい、聖徳は可視化しなければ意味はない、というのがこの人たちの考えである。

喧々囂々の議論の末、ほどなく決定が出た。つくられるのは森に包まれた神社。代々木と青山の2ヵ所を、内苑と外苑としてつないで、それはつくられる。

森はなにかを隠しながらなにかをあらわす。明治という時代の象徴が、隠しながらあらわす森として表現されることに決まった。驚くべき決定である。

現在の明治神宮(Photo by iStock)

森のカミ

明治天皇を記念する施設は、「森に包まれた神社」となることが決定された。ここにも新しい伝統を創出することを目的とした「明治神宮」というコンセプトの中心に、はじめから森の存在がすえられていたことが、よくしめされている。

じっさい、日本人の生み出した「聖所」のかたちである神社の本質は、建物ではなく、建物を包む森のほうにある。いやむしろ森そのものが神社だった。昔は神社の森は、どこでも今よりもずっと大きかった。鬱蒼たる樹林を抜けて社殿へたどり着いても、そこでは外とも内とも区別のつかない通路のような場所で、人はカミに向かい合う。カミは自然から遮断されていない。

これがキリスト教の聖所では、人は自然から遮断された建物の中で、神と向かい合うようにしつらえられている。建物の天井はとてつもなく高く、ステンドグラスから差し込む光や、天上に向かって上昇していくオルガンや声による音楽が、自然を越えていく神の崇高さを演出する。印欧語では古くから神は「デーヴィ」と呼ばれたが、それは天空の高みのことを意味した。神はそこではつねに光や崇高と結びついていた。