「築地市場閉鎖」そのとき日本人が永遠に失ってしまうもの

世界で唯一の「魚河岸の思想」が危機に

築地市場の最終営業日が、2018年10月6日(土)と決まった。恒例のマグロの初セリを築地で見ることができるのも、この年明けが最後かもしれない。

築地が背負うもの。それは単なる魚市場としての機能だけではなく、日本人の心の深いところに蓄積された、世界に類を見ない思想と伝統である――。

このほど人類学者の中沢新一氏が、ライフワークである「アースダイバー」シリーズ最新刊『アースダイバー 東京の聖地』を上梓した。表面的なニュースでは知ることのできない、築地市場の知られざる深層を本書から公開する。

魚河岸の自然哲学

魚河岸は、海の自然と人間文化の入り混じった境界であるから、海の自然が奥深くまで入り込んでいる。板舟に並べられた魚には、しじゅう海水が注がれて、鮮度が保たれている。活け船や水槽を使って、慎重に魚河岸に運び込まれた魚たちなどは、自分たちが市場にいることにも気づかないで、ゆったりと水の中を泳ぎ回っている。

自然と文化の混成したその境界の空間を、仲卸(仲買)たちが、所狭しと動き回っている。その仲卸自身が、境界的な生き物である。

仲卸は、問屋によって産地の海から運び込まれた魚貝を、セリにかけ、人間世界の商品に変える役目をになっている。彼らは、相手の顔を知り抜いている寿司屋や料理店や小売の魚屋のために、できるだけ質の良い海の食材を用意したいと願っている。その日に入荷された魚貝を、彼らは半魚人さながらの鋭い目利きをもって正確に評価し、陸に棲む人々に手渡そうとしている。

Photo by gettyimages

こうして、海であり同時に陸でもある、この魚河岸という両義的な境界には、代々の仲卸によって、海の食材に関する莫大な知識が蓄積されることになった。境界の領域に、もっとも貴重な知財が蓄積されるというのが、「自然と文化を分離しない」日本文化の大きな特徴をなしている。

日本の農村文化では「里山」が、そのような知財の集積される境界をつくってきた。その里山を凌駕するような豊かな境界を、日本の海民文化は、魚河岸として実現してきた。その意味で、魚河岸の文化は、日本型原理の生み出した最高の作品の一つである、と私は思うのである。

日本橋から築地への移転騒動

しかしそういう日本型文化の典型のような魚河岸であればこそ、文明開化の時代に、大きな困難に直面した。文明開化のモデルとなった西洋の近代は、「自然と文化の大分離」という原理を実現しようとしていた。この原理では、自然と人間世界の境界につくられてきた、豊穣な中間領域などは認められない。

人間の世界の内部に、自然界が深く入り込んでくると、腐敗や死や病気がもたらされるからである。そういう事態を阻止するために、近代世界は自然界から切り離された、「衛生的」な都市を設計しようとした。明治新政府のブレーンたちは、そういう衛生的な近代都市に、東京は生まれ変わらなければならないと信じていた。

憲法発布の前年である明治21(1888)年の夏、東京府は新しい街造りに着手すべく、東京市区改正条例を制定して、本格的な東京改造に乗り出した。

江戸の都市構造は、火事と風水害にきわめて弱いという弱点をもっていた。この点を改造するために、東京を区画整理して、商業区、工業区、住居区などに分け、衛生的な近代都市への計画的な発展を図ろうとした。

その計画では、市場の設置場所は、箱崎、芝、深川の三ヵ所に限定され、そこに新しい市場が開場される予定であった。このうち最大の広さをもつのは箱崎市場で、約5万坪の広さをもち、他の2つは2000~3000坪である。

 

この計画にしたがえば、日本橋にあった魚河岸(当時は魚鳥市場)は、10年以内に指定された場所に移転しなければならないこととなった。しかも、移転にかかる費用の全額は、業者自らが負担すべし、という性急で乱暴な命令であった。

このとき魚河岸といっしょに、移転を命じられたのは、青物市場、獣肉市場、屠場、火葬場など。自然の生死のサイクルに関わる業界が、衛生的な都市実現のために、所定の区画への移転を命じられたのである。おまけに、移転を監督する役目をまかされたのは、庶民に高圧的な態度で臨むことで恐れられた警視庁であり、これ以後、日本橋魚河岸と警視庁との間で、暗闘が続くことになる。