「遺伝か環境か」不毛な議論に終止符〜なぜその努力は報われないのか

よくある4つの誤解を解く
安藤 寿康 プロフィール

ビリギャル少女は、いろいろな事情の中で、中学以来ほとんど勉強せずに楽しいことばかりしつづけたために、学校では人間のクズと呼ばれ、高校生になっても「聖徳太子」を「せいとくたこ」というデブ少女と勘違いするほどの学力だったそうだ。

しかし、あるきっかけから熱心で有能な塾講師と出会い、初めて学習する目標と環境を得て集中的に努力を傾け、偏差値を30から70に上げて慶應大に合格したという。

誰にでもある話ではなかろうがリアリティあるその物語を描いた映画は感動的だった。

「ダメな人間などいない、ダメな指導者がいるだけ」と主人公に真正面から向き合うこの先生の姿勢、その指導法は小手先に陥らず、学習内容の本質に迫るすぐれたものだった。

無条件にわが子の幸せを願う母の姿に、行動遺伝学者である私の心も大きく動かされ、何度も涙した。

 

昔から変わらない教育者の姿勢

この主人公のような事情で学習しないまま学齢期を過ごし、親の愛情も満足に受けられず、学業成績が悪いだけで生まれつき頭が悪いと自分も回りも思いこんで、「自分の(この子の)人生なんてそんなもの」とあきらめている子どもや親や先生が、この日本に少なからずいるだろう。これを放置するわけには行かない。

そしていまの日本の教育事情にいる限り、教師として「勉強ができないのは地頭(遺伝)ではない。適切な指導法(環境)がなされていないからだ。だれでも一流校、難関校に合格できる学力を身につける可能性がある」と子どもたちとともに信じながら教育に専心することは、教育の「方便」として倫理的に全く正しい。

特に高校進学がほとんど100%に達し、学歴が人生成功のために(あるいは社会で落ちこぼれないために)絶対必要なパスポートと多くの国民が信ずる日本の教育事情のもとでは、「ビリギャル」「ドラゴン桜」「下克上受験」のような物語が世間の支持を得るのもやむをえまい。

こうした状況を教育の「方便」と言いきったのは、ビリギャルが合格した当の慶應義塾の創立者、福澤諭吉である。高等学校進学どころか小学校の就学率すら男子60%、女子20%の時代に、だ。

元来教育の主義に於いては、人の天賦を平等一様のものなりと視倣して、其能力の発達は教ゆる者の巧拙と学ぶ者の勤惰如何とに在るものとして奨励することなれども、是れは所謂誘導の方便なるものにして、実際に於て人の能力は天賦に存するを常とす。…畢竟世の教育家が其教育奨励の方便の為に事実を公言するを憚り、遂に天賦論を抹殺して一般に之を忘れたるものなり。固より愚民多き世の中なれば、無天賦論の方便も時としては可ならんと雖も、事実を忘れて之が為に遠大の処置を誤るは憂ふ可きの大鳴り物と云ふ可し。(『時事小言』,1881より)

「固より愚民多き世の中」の部分だけはいささか承服しかねるが(その「愚民」たちが世界を驚愕させた明治以降の日本の近代化を担ってくれて今の繁栄があるのだから)、それ以外の部分は基本的に私の言いたいことと変わらない。

要するに遺伝に対する教育者の姿勢は昔から同じなのである。