あの噺家は誰だ?『わろてんか』の実在のモデルを推理してみた

吉本興業と上方落語の微妙な関係
堀井 憲一郎 プロフィール

大阪落語界の激動

吉本の小屋は、値段をおそろしく安く設定して客を呼んだ。

ドラマ『わろてんか』では、自分たちの寄席のオープン直後に「伝統派」の落語家の重鎮、喜楽亭文鳥(きらくていぶんちょう)を呼んでいる。「時うどん」を演じていた。演目はどうでもいい。誤解されることがあるが、落語を聞くときに演目はさして重要ポイントではない。いまでも定演の寄席に行けば、演者の名前は提示されているが、演目は知らされない。落語とは、そういうものである。客は演者を聞く。ネタを聞くわけではない。

伝統派の喜楽亭文鳥。演じたのは笹野高史。

当時の現実の大阪落語の世界は「桂派」と「三友派」に分かれていた。

桂派は〝素噺〟で聞かせた。ただ落語を話して聞かせるだけのスタイルである(いまの東京の落語はだいたい素噺である)。

三友派は、笑いの多い滑稽話を得意とし、一席のあとに音曲入りの派手な踊りを見せたり、イロモノを多く登用して、賑やかな高座を展開していた。

おそらく伝統派というのが桂派、オチャラケ派は三友派をモデルにしているのだとおもわれる。

ただ細い部分ではいろいろと違っている。

最後は出家して坊主に戻った興行主の〝テラギン〟はオチャラケ派になっていたが、あの人はどう見ても「落語反対派」を作った岡田政太郎だろう。

大阪落語界は、桂派と三友派は手打ちをしたあと、岡田政太郎の反対派が勃興してくる。やがて三友派とその〝反対派〟の対立の時代があり、それも岡田政太郎の死去によって終わる(出家というのはドラマなりのやさしい解釈であろう)。

そのあと三友派も反対派もすべて吉本興業に呑み込まれていった。それが現実の展開である(かなりややこしくて面倒な展開だった。おそらくそれぞれの派閥の規模がさほど大きくなかったからだとおもう)。

 

喜楽亭文鳥のモデルは誰か

『わろてんか』はフィクションであり、だからそのモデル探しにはあまり意味はない。

そもそも、1912年当時に吉本興業(の前身)が、桂派の重鎮を寄席に呼ぶということは、あまりにもありえないので、モデルを推察することさえ意味がない。でも、強いていえばそれは誰か、と考えるのは楽しい。だから考えてみる。

『わろてんか』の喜楽亭文鳥のモデルは誰か。

桂派の総帥だった二代桂文枝は、1908年に引退しており、あとを継いだ三代文枝は1910年に死んでいる。この2人は、1912年天満の端席で一席を演じることはない。

そしてこの2人をのぞくと、桂派の重鎮というのがすぐには浮かばない。

桂派はこの時点でかなり弱い存在になっていたことが、あらためてわかる。

文枝でないとすると、たとえば四代目の桂文吾、初代の桂枝雀、初代の桂枝太郎というあたりだろうか。

夏目漱石が絶賛した東京の落語家三代小さんと盟友だったのが、四代文吾である。「らくだ」を得意としており、それを小さんに教え、東京でも演じられるようになった。

文吾の「らくだ」はとにかくすごかったらしい。特に紙屑屋が酔ってとろとろになるところが絶品だったと伝わる。この高座を見た後輩たちはとてもやれないと、このネタを避けていたという伝説がある。演じてないわけではないが、演っても、文吾と自分の差をおもいしらされ、演じる回数が減っていったのだろう。

文吾は後年、高座で落語を演じてる最中に奇妙な行動に出て、頭がおかしくなった、と言われている。

初代桂枝雀は、明治から大正期に活躍して爆笑王と呼ばれた。近年活躍していた二代目の枝雀(1939-1999)も爆笑王と呼ばれたが、初代もそうだったのだ。

初代の桂枝太郎は、先斗町(ぽんとちょう)の師匠と呼ばれた人で、つまり京都の芸人である。文吾の「らくだ」と同じで、この人の「大丸屋騒動」も絶品と言われ、彼以外に誰も演じようとせず、本当に誰も演じなかったので、いっときほぼ滅んでしまったくらいである。(五代文枝らによって復活された)

桂派の重鎮として浮かぶのは、このあたりである。たぶん、モデルでも何でもないとおもうけど、可能性としてはこのへんでどうでしょう、という提案でしかない。どうでしょう。

私としては、枝雀を一番推しておきます。