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「勉強デキ過ぎてキモがられた」東大卒哲学者のトラウマ

実は多い「勉強で不幸になる人」

東大生・京大生にいま最も読まれている本”として話題の『勉強の哲学』。4月の発売から現在まで順調に版を重ね、人文書としては異例の大ヒットとなっている。

勉強についての指南書が次々出版される中、なぜこの本だけがこれほど支持されるのか。日本トップクラスの頭脳集団の心を掴んだポイントとは? その理由を、著者の千葉雅也自身が分析。さらに、これまでの勉強との関わり方や自身の体験から導き出した“勉強できる子どもの育て方”まで、存分に語ってもらった。

頑張れば頑張るほど、ズレていく

勉強の哲学』はなぜ東大生・京大生にウケたのか。それは、僕自身の経験に基づく内容に、彼らが強く共感する部分があったからだと思います。

例えばこの本の中にある“小学生の頃、うっかり難しい言葉を使って友達にからかわれたり、キモがられた”という記述はそのまま僕の実体験ですが、まわりの研究者仲間に聞いてみると、こういったことは学生時代にみんな経験しているんですよね。それを聞いて僕は“ああ、これは自分だけじゃない、一般にもいえることだ”と思った。

いわゆる受験戦争を乗り越えてきた人たちはみな、勉強を頑張ったことで周囲とズレが生じたというトラウマがあるんです。『勉強の哲学』を書くにあたり、そういった人たちが共感できる部分をあえて集めたところはあります。なぜなら、このトラウマに焦点を当てた本というのが今までなかったからです。

“学校の勉強なんてクソくらえだ!”という感じで生きてきた人が自分なりのやり方を貫いて成功した話、勉強しなかった人への応援歌といったものはたくさん書かれているのに、逆に勉強したことで不幸になった人への応援歌はなかった。

きっと多くの人は、勉強すると何かトクをするとか、社会的にいい立場に行けると思っているんでしょうね。でも必ずしもそうじゃない。勉強することで、みんなが楽しめることが自分だけ楽しめなくなる、ノーマルさを失うということがある。これは『勉強の哲学』の大切なテーマです。

 

勉強とは「ノーマルでなくなる」こと

その背景の一つに、LGBTに代表されるようなマイノリティの問題があります。これについては元・ナタリーの唐木元さんと話した時に「この本で“キモい”をキーワードにしているの、クィアの問題もあるでしょ」と指摘され、僕自身そこで初めて気付きました。書いている時は無意識だったけれど、言われてみればそうだな、と。

「クィア(queer)」とはもともと同性愛者に対する蔑称で、“オカマ”とか“変態”といった意味合いで使われてきた言葉です。ところが、LGBTの権利問題に立ち向かっていた人たちはそれを逆手に取り、自分たちを指す言葉として積極的に使い始めた。揶揄されるような言葉をあえて自ら引き受けることで、その価値を転換してしまうというやり方。

これを「クィア理論」といい、現在では性的マイノリティの生存戦略の一つになっています。クィアな、あるいはLGBTの人たちは、“キモさ”に対する自意識、それとどう付き合っていくかということに対してとくに繊細な感覚を持っているといえるでしょう。

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“価値の転換”をイメージしやすいようにもう一つ例を挙げておくと、障害者運動の中にもこれと似た動きが出てきていますね。それは“その人に特異な身体を持っている”というふうに、障害をひとつの価値として捉える考え方です。

障害がある=欠けている、違っているという価値感覚は、あくまで「これがノーマルだ」という基準から見てのこと。それと戦うために、基準そのものを複数化してしまっているのです。

僕が『勉強の哲学』で「キモい」という言葉を使う時には、このクィア的な発想が背景にあると言える。ノーマルを基準としたモノの見方からの否定的な価値設定をどう転換してやるか、ということを考えているわけです。

重ねて言いますが、勉強とはノーマライゼーション、つまり“よりノーマルへと近づき、ノーマルな基準の中で偉くなること”ではありません。ノーマルの基準からズレたところで、ノーマルな人たちに後ろ指さされながらも、そこで独自のフィールドを展開すること。これこそがこの本で提唱する“勉強”なんです。