いま哲学は何の役に立つのか? 岸見一郎と大澤聡が考えた

三木清・生誕120年記念対談
講談社文芸文庫

対話と哲学

大澤 読書は先人たちとの対話でもありますね。岸見さんがお相手ということで、「対話」もテーマにしましょう。一高の卒業生は東京帝国大学に進学するのが通例でしたが、三木は西田幾多郎に憧れて京都帝国大学に進みます。それが人生を決しました。

『大学論集』の解説にも書いたとおり、入学直後から三木は西田を頻繁に訪ねては刺激をもらっている。それが生涯続きます。西田のほうもことあるごとに三木を呼び出すし、弟子との対話を純粋に楽しんでいた様子です。

岸見 僕が高校生のころ、「倫理社会」という教科があって、その先生が京都帝国大学で学ばれた方だったのです。1902年生まれです。

大澤 三木の五歳下。梯明秀らと同学年ですね。

岸見 西田幾多郎や三木清たちとも交友があったのではないかと思うのですが、授業中に大学時代の話をいっさいなさらなかった。

逆に気になって高校生なりに調べてみたら、戦前に京都学派というシューレがあって、戦争協力を理由に戦後は公職追放された人もいたとわかる。

その先生も戦前は女子師範学校の校長までつとめたんだけど公職追放されて、戦後は高校でつとめていた。

岸見一郎氏

大澤 岸見さんくらいの年代だと旧制高校や旧制大学の出身者が身近にまだ存在したわけですね。

岸見 そういう歴史を知った時に、西田幾多郎や三木清を知って、『人生論ノート』を手にしたのです。だから哲学のきっかけが京都学派だったのですが、その後ギリシア哲学に行ってしまって、ある意味三木を置き去りにしたのです。でもずっと心の片隅に残り続け、全集まで買い込んだりして、三木との出会いは意味深いものでした。

倫理社会のその先生に「哲学を専門にしたい」と伝えたところ、そっけなく、やめなさいとだけ言われました。ご本人が苦労されたからでしょう。けれど、どうしても学びたいと食い下がると、「きみには欠落している知識がある。いっしょに勉強しよう」とおっしゃって、毎週土曜の放課後に先生との個人授業になった。

大澤 それはすばらしい。社会学者の大澤真幸さんからも似た話をうかがったことがあります。かつてはそういう教師が高校にたくさんいた。

 

岸見 はたから見ると、居残りさせられてるみたいですけどね(笑)。マルクスの『経済学批判』の序文を二人で読み進めました。テキストは先生が非常勤で教えている大学で使っているものだったんですが、そこにはドイツ語の原文も載っていた。このドイツ語も読んでもらえませんかとお願いしたら、きちんと教えてくださった。対等だと思いません? 70代の先生と、17歳の私がテキストをはさんで話し合える。僕にとっての対話の原点です。

大澤 高校生である岸見さんの意見も正面から受け入れてくれたわけですね。上下の関係があったとしても、興が乗ってくるとそれを忘れて知の饗宴と化す。哲学がもつ喜びです。

岸見 「誰が言っているか」ではなくて、「何が言われているか」にだけ意識をむけて話ができる。これは哲学ならではかもしれません。

大澤 とはいえ、「対等」とはむずかしいものです。どうしても、知識や経験のある年長者の声が大きくなってしまう。そうでない側は忖度してしまいがち。岸見さんはカウンセラーとして日常的にいろいろな方とお話する機会を多くもってらっしゃると思いますが、そのあたりどうお感じですか。

岸見 むずかしくはないですよ。むしろ、対等でなければ話はできません。カウンセリングにいらっしゃる方は多種多様なバックグラウンドを抱えています。年齢も性別も社会的属性もばらばら。だから、どんな人でも理解できる言葉だけを使う。それは心がけています。むずかしい言葉は絶対に使わない。

大澤 話が簡単だというのとはちがいますね。

岸見 そう。ソクラテスがちょっとむずかしい話をしたら、若い人が「いまのところがよくわからないからもう一回説明してくれ」と聞く。あの感じです。

この人はこんな話を理解できるはずがないとは思わない。それを思った時点で対等じゃないですから。ねばり強くいっしょに考えていくことも多々あります。この人としっかりと話をすれば、きっとどこかの理解に到達するだろうと、僕は心掛けています。

大澤 「問答」は哲学の基本スタイルのひとつですね。自分のなかで独我論的に思考を突きつめていく天才型の哲学もありますが、それだって何かフックがないと駆動しない。こうやって二人で対話しているのもそうで、お互いに呼び水を差し出しあっているわけです。

会場にいらっしゃるみなさんも、この呼び水を共有してそれぞれに思考を随時発展させるところがあるんじゃないかと思う。読書はこれと近い。

岸見 「100分de名著」のMCの伊集院光さんが、「むずかしい本だけれど、岸見先生の導きがあると我々でも読める」と何度もおっしゃっていましたが、そうじゃないと思うのです。共演者との対話を経るなかであらためてわかったことが僕にもたくさんある。それは台本にはないことです。対話から生まれるアイデアを大事にすることが必要です。

大澤 あらかじめ台本なり原稿なりがある形式の番組はテンポはいいんだけれど、頭に残りにくいですね。講義やセミナーもそう。講師と直接しゃべったり、誰かが講師としゃべっているのを第三者として聞いたりすると、すっと入ってくることがある。トークショーや対談記事の構造はじつは技術的によくできている。

岸見 『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)がまさにそうやって作られています。あれは共著者の古賀史健さんと担当編集者の柿内芳文さんと僕の三人で話すところからスタートしました。毎回5、6時間議論するのですが、それを2年間続けた。

何回目かの打ち合わせのときに、こんなにおもしろいのだから、議論している内容をそのまま本にしましょうと柿内さんが提案してくれたのです。予定としては「私」が主語のモノローグ形式だったのが、ダイアローグ形式に切り替わったわけです。わからなかったらその場で聞き直す。あんな感じになっていると、哲学の本も比較的読みやすいのではないかなと思います。

大澤 プラトンの「対話篇」がお手本になっていますね。あるテーマについて知りたいとき、いきなり専門書に飛びつくわけにはいかないので、そのテーマをめぐるよい対談を見つけてきて、それを入口にしてはどうだろうかと、あるエッセイで書いたことがあります(「立ち聞きのすすめ」『早稲田文学』2016年夏号)。誰かと誰かが特定テーマについてしゃべっているのを立ち聞きするあの感じ。紙上の耳学問ですね。