いま哲学は何の役に立つのか? 岸見一郎と大澤聡が考えた

三木清・生誕120年記念対談
講談社文芸文庫

本に線を引きますか?

大澤 ところで、本を読むときに線を引かれますか?

岸見 引きたくないですね。後で煩わしくなる。その時はいいのですけど、数年後に読み返す時に、邪魔になるんです。こんなところに何で線を引いたかなって思ってしまって。だから今、消えるペンで線を引いています。かつての自分が声が大きいのです。

大澤 僕はどんどん引く派です。むしろ、数年前の自分との対話を楽しみたい。なぜこの質問をしたのかと言うと、三木清の文章って線を引きたくなるところが満載なんですよ。ラップでいうパンチライン、グッとくるフレーズばかりで構成されている。だから、油断すると線だらけになってしまう(笑)。

岸見 かもしれないですね。ただ、今回大澤さんが編集した論集に収録された多くの文章と、僕が「100分de名著」で取り上げた『人生論ノート』はちょっと違うのです。『人生論ノート』はあまり線を引くところはなくて、論集の方が引けそうですね。『人生論ノート』は線を引く前にそもそもわからないので、引きようがない。

大澤 理解の有無とは別に、直感的に魅かれる文章にどんどん線を引く人も多いと思うんです。その意味では、『人生論ノート』こそ線を引く箇所だらけ。レトリックの妙がある。1941年に出版されたときの広告文には、箴言集だと強調されていました。

他方、正確に理解したうえで線を引く人にとっては、読むそばから引ける文章ではないですね。呪文的というか預言的というか、人生を経るなかで、なるほどそういう意味だったかとあとからじわじわわかってくる。

大澤聡氏

岸見 『人生論ノート』の寡黙な三木清と、おしゃべりな時事論の三木清がいるのではないか。今回の論集からはそんな印象を受けました。

大澤 哲学的な文章の場合、三木はかなり圧縮して書きます。ハイコンテクストだったり、僕の『批評メディア論』(岩波書店)の用語で言うと「多重底構造」だったりになる。

だから、正確な理解となると、『「人生論ノート」を読む』のような註釈やガイドがあるとずいぶん助かる。一人で読むときには、『三木清全集』全20巻をひっくりかえして、ほかの文章と突きあわせてようやく理解できる。

 

岸見 むずかしい本を読むときには、著者が何を念頭においているかをたえず考えないとわかりません。その意味でいうと、『人生論ノート』はやはりむずかしい。何を念頭においているのかがすぐには見えませんから。

大澤 文としては理解できるし、魅かれるところもある。にもかかわらず、もう一段深いところでちゃんと理解しようとすると、いろいろわからなくなってくる。時間性に耐えて残る古典はそういうものですね。

岸見 そう。大澤さんが編集された三冊の論集は、その時どきの時事問題を扱っているので、読者は読んですぐに「あの話ね」と理解できるのです。三木の文章ってこんなにわかりやすいんだという驚きがあるのがこの本の特色ですね。

大澤 ただし、当時の読者と前提を暗黙のうちに共有しながら書いた文章なので、80年、90年後の僕たちにしてみると、歴史的な知識をもちあわせていないと何を指すのかわからない部分も多い。その意味では、反対に哲学書のほうが普遍性を志向しているだけに、読めてしまえる場合もある。

ともあれ、彼がおもしろいのは、普遍タイプと時事タイプの仕事を1930年代に平行して進めていたことですね。だからこそ、時事的な問題を扱っていながら、時間性を超越するだけの強度を備えた文章に仕上がっている。

岸見 やはり、彼が哲学者だからでしょうね。哲学的な視点から時局を見据えていた。だから、いま読んでも理解できる。それどころか、むしろ時間的な隔たりを感じさせない。『三木清大学論集』で言及される大学事情など、いまこそ考えないといけない問題ばかりです。そういう意味では、あたらしい。戦前に書かれたものだとはとても思えない。

大澤 三木清が時間性を超越する文章を書きえた哲学者だったというのがひとつの説明ですが、もう一つには彼が生きた〝危機の時代〟に現代が近くなっているとも言える。

岸見 今の時代について書いているのではないかと錯覚するほど、現代が戦前・戦中と酷似している。彼にとってはリアルタイムの考察だったけれど、今の我々にとっては予言の書になっています。