座間の事件後もなぜ「死にたい」というツイートが絶えないのか

一緒に死ぬ人を探しているあなたへ
伊藤 氏貴 プロフィール

「誰かと一緒に死にたい」という意味

ですから、見知らぬ行きずりの人と「心中」することはことばの意味からいえば不可能なはずです。「心中」というのは、行為としては誰かと一緒に死ぬということですが、その動機は必ず、その人と一緒に生きたい、ということだからです。

「心中」の意味の中心は、心の中をさらけ出すということにありましたが、その心とは「ずっとその人と一緒にいたい」ということでした。その意味で、死にたい人同士が一緒に死ぬだけでは「心中」にはなりえないのですが、しかしそれでも、「死にたい」と不特定多数の人に向かって呟き、誰か一緒に死んでくれる人を探すときには、心の中で「心中」を望んでいるのではないでしょうか。

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つまり、「誰かと一緒に死にたい」ということばの裏には、誰か自分と一緒に生きてくれる人がほしいという願いがこめられている、ということです。

ただ、「死にたい」と呟く人は、憂いで頭がいっぱいになってしまっていて、自分の口からふと洩れる呟きの意味を深く考える余裕がないのだと思います。

ここで立ち止まって、自分の深い「心の中」の声に耳を傾けてみてください。誰でもいいから一緒に死んで、というのは、誰でもいいから一緒に生きて、ということの裏返しなのではないでしょうか。でも、一緒に生きてくれる人を見つけるのは難しそうだと諦めて、その気持ちに蓋をしてしまっているのではないでしょうか。

 

「一緒に生きる」というとなんだかおおごとのように感じますが、ただ、今必要なのは、「死にたい」という自分の「心中」を打ち明ける相手なのではないでしょうか。それならば、少なくとも一緒に死ぬ相手を見つけるよりはかんたんです。

一緒に死ぬ相手を見つけるのはまず不可能です。「死にたい」という相手も、ほんとうは誰かと一緒に生きたいと願っているはずだからです。ほんとうは生きたいと思っている二人が出会っても、一緒に死ぬことはできないでしょう。

それでもあなたを死へ誘おうとする人は、一緒に死にたいのではなく、たんにあなたの死を願っているだけです。座間の「首吊り士」のように。

それならば、一緒に死ぬ相手を見つける前に、まずは自分の「死にたい」をそばで聞いてくれる相手を見つける方が、あなたの真の願いに叶っているのではないでしょうか。もちろん、そのためには自分の「心中」をまず見つめ、それを飾らずに打ち明けることが必要ですが、ほんとうに一緒に死ぬ相手を見つける、つまり真の「心中」をするためには、これが不可欠のステップなのです。

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