座間の事件後もなぜ「死にたい」というツイートが絶えないのか

一緒に死ぬ人を探しているあなたへ
伊藤 氏貴 プロフィール

実際、「死にたい」の実現率は、「死ね」のそれよりも何十倍も高いのです。2016年の日本の殺人件数は、289人。対するに自殺者は20,984人に上ります。「死にたい」はつまり、自分で自分に「死ね」ということで、一人で自己完結できるからでしょう。

日本人全体の死因の中で毎年必ずトップ10入りし、20代、30代の死因としては断然の1位で、20代前半では、死者のほぼ半数が自殺です。その裏で、実行にまで至らなかった人たちのことを思えば、「死にたい」と思っている若者はむしろありふれているということです。いや、そもそも死を一度も願ったことのない若者などいるでしょうか。

「死にたい」は昔から若者の共通語でした。ただ、最近少し変わってきたのは、かつては一人とぼとぼ帰る夜道や自室のベッドの隅っこで呟かれたそのことばが外にこぼれでて、あてどなく世界中をさ迷い歩きはじめたということでしょう。SNSは今や「死にたい」という呟きで溢れています。

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その呟きが誰かに拾われて、死にたいと思う胸のうちを聞いてもらえることもあるでしょう。呟き同士が出会うこともあるかもしれません。一人で死ぬのが怖いという人は、誰か一緒に死んでくれる人を探して呟きを放ちます。このような新しく生まれた出会い方への願いを悪用したのが座間での事件でした。

しかしそれでも、「死にたい」という呟きはあとからあとから溢れています。「誰か一緒に死んでくれる人を」という呼びかけもまた。試しに検索してみてください。次から次へと更新されていきますから。

「心中」の意味

ほんとうに死んでしまう人、「死にたい」というより「死ななければならない」という希死念慮に囚われてしまった人は、おそらく誰かに呼びかけることも難しいでしょう。「誰かと一緒に死にたい」というのは、まだ他者との繋がりを求めています。

誰かと一緒に死ぬことをいうのに、「心中する」という日本語があります。これは漢語ではなく、日本独自のことばです。本来は恋人同士がこの世で結ばれないのをはかなんで共に死ぬことを言いました。一家心中や無理心中はそこから派生したものです。

でもなぜ、二人で死ぬことを「心中」というのでしょうか。字面だけをいくら見つめても、そこから「二人一緒」も「死」も出て来そうにありません。

これは、元は一般的な恋人同士ではなく、遊郭の女郎と客との間に使われたことばでした。女郎に恋人ができたとしても、売られた身では他のお客をとらないわけにはいきません。それで、恋人(「間夫」といいます)だけには、自分のほんとうの心の中(=「心中」)を証し立てるために色々なことをしました。「心中」とは文字通り、心の中をさらけ出すことだったのです。

手紙を書いたり、熊野神社の誓紙で誓ったり、おそろいのグッズを身につけたり……。ただこれだけではまた他のお客にも同じことをしていないとは言えません。同じ一人の女郎に入れあげて、同じ手紙をもらって喜ぶ馬鹿な親子の話が落語にあります。

 

それで、男の名前を刺青で入れたり、小指を切ったり……。こういうことを皆「心中立て」といいました。ここまでくれば、気持ちもわかろうというものですが、男に身請けするほどのお金がなく、女はこのままずっと別の男たちに身を売りつづけるしかない、というときに命を捧げるのが最高度の「心中」なのでした。つまり「心中」とは相手の男への愛を証明する手立てのことだったのです。男もそれに応えて共に死ぬことで「心中」は完遂されます。

つまり今に残る「心中」は、この世ではどうしても結ばれない二人が、せめてあの世で一緒に暮らしたいという願いによってはじめて完成するものでした。逆に、心の中を洗いざらい打ち明け、その思いがこの世で遂げられるなら、その「心中立て」は死ぬことを必要としませんでした。