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北の工作員が日本人拉致を続々実行する契機となった「ある事件」

私が出会った北朝鮮工作員たち 第8回
竹内 明 プロフィール

知られざる「アンテナ作業」

これは数少ない成功例だ。ベテラン捜査員は言う。

「実際に協力者を獲得できるのは極めて異例で、北朝鮮の工作活動を暴く日常作業というのは、たいていは地道な作業ばかりだ。

どこかのビルの屋上に、アンテナが張ってあるという情報があれば、居住者を尾行するとかね」

日本に潜入した工作員を発見する手がかりは少ない。とっかかりは「アンテナ作業」だという。

 

所轄から「ビルの上に奇妙なアンテナがある」と連絡が入ると、公安部外事二課(ソトニ)の捜査員たちは、現場に出向き、離れた位置からアンテナを検証する。本国からの指令が送られる「A3放送」を受信している可能性があるからだ。

そうしたアンテナはパチンコ屋やマンションの屋上に「展張」されている。

高さ3メートルほどの支柱が2本立てられ、その間に7メートルから15メートルほどのアンテナを渡してある。この展張法は北朝鮮の工作員がよく使うやり方だ。

無線通信を専門とする技官が出動すると、そのアンテナが「生きているか、死んでいるか」を判断することができる。

技官が「生きている」と判断すれば、その建物に北の工作活動に関わる者が住んでいる可能性が高い。現役工作員が居住していると判断し、外事二課の捜査員らは近くに視察拠点を設けて、徹底した「行確」(行動確認)を行う。

「ナミが出た。配置しろ」

こうした地道な活動を長年、続けてきたにもかかわらず、なぜ公安警察は自国民が拉致されるのを防ぐことができなかったのか?

これは、公安警察を取材する者にとっての、最大の疑問だ。

日本人拉致事件が多く発生したのは、主に1970年代から1980年代だが、日本警察は当時から、北朝鮮工作員の潜入を座視していたわけではない。

沿岸部の漁師や旅館経営者といった民間人を「密航監視哨員」に任命し、沿岸部で不審行動をとる人物に関する通報を求めてきた。

さらに、警察庁には「電波傍受」という秘中の秘の策があった。北朝鮮が潜入工作員に送る指令電波を傍受する施設があるのだ。

北朝鮮工作員が使用する電波には、三つのパターンがあったという。「A1」はモールス信号、「A2」が中波のラジオで傍受するモールス信号、「A3」が暗号の数字を読み上げるラジオ放送だ。

こうした電波の傍受作業を担当していたのが、警察庁警備局外事課「八係」の指揮下にあった全国の「通信所」だ。

本部は東京日野市の丘の上にあり、「ヤマ」というコードネームで呼ばれた。

北海道・北広島、宮城県・仙台市、秋田、千葉県・館山市、愛知県・小牧市、大阪府・信太山、鳥取県・赤碕、福岡、鹿児島県・出水市、沖縄など、日本列島の10ヵ所以上の丘の上に通信所が存在する。

ここでは通信技官たちが、24時間体制で北が流す電波を傍受していた。

こうした通信所は、実に過酷な職場だったという。

「何もない山の上の建物の中に籠もり、保秘のために外部との交流もない。ひたすらヘッドホンを耳に当てて放送を待つのは厳しい作業です。強い精神的ストレスや閉ざされた職場での人間関係で参ってしまう人も多かった」(公安警察関係者)

A3放送で潜入・脱出の日時を指示された工作員には、日本に出入りする当日にも工作母船からの指示が飛んでくる。

「トン・ツー」のモールス信号や鉄鍵盤を擦るような音を出すジャックノイズによって「接線」(工作員との合流、朝鮮語では「ジョブソン」)のポイントを指示するのだ。

これをキャッチした通信所は、発信源の方角や電波の強さなどから、工作母船のおおよその位置を特定する。そして付近の海岸に「A車」「B車」というコードネームで呼ばれるレーダー車(電波送受信車)を派遣。

無線通信所との三角測量の要領で、沖合にいる工作母船の詳細な位置を特定するのだ。工作母船の位置に近い地域を管轄する県警警備部には、そのたびに緊張が走る。

ナミが出た。配置しろ」

幹部はこう指示する。「ナミ」とは北朝鮮の電波を指す隠語だ。

沿岸部の警察署には警戒強化を指示する「KB情報」が発令され、捜査員らは工作母船が観測された海岸の松林に潜んだり、沿岸部の鉄道駅で張り込んだりした。