2017.11.28
# +α文庫

主力は「下士官兵」の零戦部隊が、なぜ世界と戦えたのか

大空を生きた青年たちの証言
神立 尚紀 プロフィール

零戦の正しい情報を求めて

戦後生まれの写真週刊誌カメラマンだった私が、ふとしたきっかけから元零戦搭乗員たちと出会い、インタビューを始めたのは戦後五十年の平成7(1995)年のこと。以来、三百名を超える元搭乗員をはじめ、五百名を超える旧海軍関係者や遺族に直接取材を重ねてきた。

「誤った情報やイメージが一人歩き」というのは、そんな取材を通しての実感でもある。

これまで、零戦に関する本は、それこそ星の数ほど刊行されていて、私ができることなど多くないと思っていたが、結果的に、平成9(1997)年に上梓した『零戦の20世紀』を皮切りに、20年の間に十冊を超える、零戦搭乗員にまつわるノンフィクションを刊行することができた。

 

私はこの人たちのことを、英雄として描きたいとは思わない。と言って、心ならずも戦争に翻弄された、かわいそうな被害者だとも思わない。ただ、昭和のはじめ、大空に憧れ、生まれた時代を精一杯に生きた青年たちがいたことを伝えたい。そんな一念で取材を続け、本を書き続けてきた。

新刊『証言 零戦 真珠湾、激戦地ラバウル、そして特攻の真実』(講談社+α文庫)は、『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』『証言 零戦 大空で戦った最後のサムライたち』に続く、シリーズ三冊めの本である。

登場人物は六名。進藤三郎さん(少佐)は、重慶上空での零戦初空戦の指揮官で、真珠湾攻撃でも空母「赤城」分隊長として第二次発進部隊制空隊の零戦三十五機を率いた。

零戦を語る上で欠かせない著名な指揮官でありながら、戦後はかたくななまでに口を閉ざして表に出ることはなかった。

羽切松雄さん(中尉)は「ヒゲの羽切」の異名で知られた名物パイロットで、中国・成都の敵飛行場へ強行着陸して焼き討ちを試みたり、ソロモン戦線で機銃弾を受け、重傷を負っても、驚異的な回復力でふたたび大空で戦い続けたり、いわば昔の豪傑、武将のようなエピソードにこと欠かない人だったが、じつに緻密な理論派でもあった。

渡辺秀夫さん(飛曹長)は、搭乗員の相次ぐ消耗に、深刻な士官不足をきたした激戦地ラバウルの零戦隊で、23歳の下士官でありながら空中指揮官の大任を果たした。空戦で被弾、顔の右半面を失う重傷を負いながらも奇跡的に生還。私の取材に応じたのが、自身のことを語る最初で最後の機会になった。

加藤清さん(飛曹長)は、オーストラリア・ダーウィン上空で、イギリスの誇る名機・スピットファイアを圧倒、航空隊司令から特別に表彰されたことで知られる。やんちゃ坊主の面影を残す豪快な人だったが、やはり私以外の取材は受けていない。

中村佳雄さん(飛曹長)は、搭乗員の戦死率八割、平均生存期間三ヵ月と言われたラバウルで、誰よりも長い一年四ヵ月にわたって戦い続けた。海上に落下傘降下し、一ヵ月近くも行方不明になった挙句に生還した強運の持ち主でもあった。

角田和男さん(中尉)は、全ての零戦搭乗員のなかでも五指に入る歴戦の搭乗員で、最後は特攻隊員となり、直掩機として、爆弾を搭載した特攻機の突入を見届ける辛く非情な出撃を重ねた。戦後は開拓農民となり、戦没した戦友、部下たちの慰霊行脚に生涯を捧げた。搭乗員仲間の誰からも一目置かれ、かつ敬愛を集めた人だった。

以上六名、海軍兵学校出身のエリート士官は進藤三郎さんだけで、あとの五名は全員、兵から身を起こした叩き上げの搭乗員である。

今回はさらに、楽しげな宴会で撮られた一枚の写真から読み解く、搭乗員たちの苛烈な運命と現実を、「外伝」として付記した。

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