シベリア抑留の重苦を描いた「幻の画集」をついに発見

画家・四國五郎が遺したもの
栗原 俊雄 プロフィール

革命音頭と民主運動

民主運動はまず、こうしたにせものの秩序を解体するべく起こった。各地で階級章を外すことが広まった。上下関係のない同じ人間になる、ということだ。ただ階級が上だったというだけで特権にあずかることは難しくなっていった。

捕虜の管理が軌道に乗り、ソ連が旧軍秩序をあてにしなくてもよくなったことが背景にあった。新たなリーダーとなっていくのは、捕虜生活の中でソ連式「民主主義」に学んだ者たちである。

その教科書になったのが「日本新聞」だ。1945年9月15日の創刊。ソ連軍人が編集長だが、日本語の新聞だけに日本人捕虜スタッフの役割が大きかった。タブロイド判で2~4ページ。内容はソ連式共産主義と民主主義を礼賛するものだ。

たとえば、第一号は「同志スターリンの/国民への呼びかけ/待ちにまつた平和が遂に来た」という見出しで始まる。

その後も「労働者と農民の国『ソ連邦』」/大衆政治参与/生活の絶対的保証」(四五年一〇月一六日、一四号)、「ソ連は文化的進歩の国/科学振興は世界一 芸術は新生面を拓く」(同年一一月二〇日、二八号)、「現代の偉傑/スターリン大元帥の誕生日/人類の救護者六十六年の功績を繙く」(同年一二月二二日、四二号)などと続く。

一方、日本政府や為政者への批判は厳しい。「日本軍閥と財閥の根絶へ/「聖戦」の美名を旗印に/国民を戦争に巻き込む/知れ! 軍閥と財閥の陰謀」(同月一一月二九日、三二号)などの見出しが躍る。

 

ソ連礼賛と日本批判は最後(1949年12月30日地、662号)まで続いた。敗戦まで受けた教育と180度違う内容だが、捕虜たちが日本語の読み物に飢えていたこと、また軍国主義的教育しか受けていなかった若者には「科学的社会主義」の議論が新鮮だったことなどもあって、「日本新聞」は日本人捕虜にとって唯一のマスメディアとして浸透していった。

さて四國は建築や伐採、丸太積みなどの作業に従事していたが、凍傷や栄養失調のため倒れた。46年2月、ゴーリン病院に入院した。この入院が、その後の人生を変えたといっていい。

「勤労者の城塞」とソ連を称えるページ

入院中、「民主運動」に触れるなかで「日本新聞」を熟読した。

〈毎日私はむさぼるようにそれをよみふけった。国際情勢について、日本の国内事情について新聞が実に分かりやすくのべられていた。日本資本主義の特質、天皇制の問題などが載っていたけれ共それらは軍国主義的排外思想と天皇制教育をうけている私にとってはなかなか難解なこと〉

だったが、

〈おぼろ気ながらデモクラシーとは何かと云うことがわかりかけて来た。それらが理解されてくるにしたがって、シベリアの大地を覆っている氷がとけてゆくように人生に対して、社会に対して、国家に対して抱いていた私のギワクがつぎつぎと理解出来るものになった〉

日本新聞、民主運動が広まっていった一因として、四國のように高い学習意欲と能力を持ちながら、高等教育を受けることができなかった若者がたくさんいた、ということがある。

ソ連が示す「科学的社会主義」は、中身の妥当性はさておき、学習意欲がありながらそれを満たすことができなかった日本人たちにとって、時に魅力的だったのだ。「日本新聞友の会」というサークルが各地にできた。偽物の軍隊秩序は溶解していった。

ついに重労働から解放され…

四國は入院中、ソ連の医師、看護婦等に親切にされ感激した。「嫌ソ」感情は大きく変化した。もう一つ大きな転機になったのは、ソ連人の病院スタッフの似顔絵を描いたことだ。その画力を見込まれ、ソ連の画家とともに彼らの似顔絵を描くようになった。命がけの重労働から解放されたのだ。

47年6月、四國の帰国が決まった。8月、引揚船が入出港するナホトカへに到着した。多数が集結する施設の整備のため残留者を募っていたのに応じ、残留することを選んだ。

そして画の才能が見込まれ、「ナホトカ民主グループの宣伝部員」に迎えられた。仲間が建ててくれたアトリエで民主運動を広まるための絵やポスター、紙新聞などを制作。野外劇場造りもやった。

さらに「民主日本のために」というテーマで60枚ほどの紙芝居を制作。日本帝国主義が敗戦に至るまでの歴史、「民主国家」建設のために労働者や農民、インテリが果たすべき役割を説いた。

〈脚本はアクチーブと共に批判会をもち完全なものとし私はその作画をはじめた。半月あまりかけて四十枚近い全部ができあがった。題して 復員する同士諸君! 民主民族戦線に結集せよ! というものだった〉

このころ、ナホトカは民主運動の高揚期を迎えていた。1947年11月7日、ソ連の革命記念日である。四國は<ソビエト社会主義十月革命30周年記念日万歳!>と書いた。

〈地球の六分の一の面積に住む兄弟たちが自ら鉄の鎖を断ち切った日であり働く者の勇気と確信をあらたにする日であった。その記念日が近づいてくる、と言うので全ソ同盟にある日本人のスローガンは革命記念日をめざしての闘争とおくれた地区の追いつき追いこせ運動が展開されていた。(中略)文化部は革命音頭を作曲し踊りをつくりあげこれの普及のため朝から晩までひとびとはこれを練習しアコデオンの音が鳴りひびいた〉

「革命音頭」は、四國の絵によれば盆踊りのように、輪になった者たちが同じように手足を上げた踊りのようだ。

<歌も革命的、踊りもまさしく革命的だった(中略)みんなぴったりとそろうと巨大な篝火焚火に濃い影をつくって素晴らしいボリウムをつくりあげた>

「革命音頭」の模様を描いたページ

100人近い者たちが、燃え盛る焚き火を中心に踊っている。収容所の横断幕には「自由と平和民主々義のために斗う世界民主勢力の城塞ソ同盟万才」。「日ソ人民の友好万才」などとある。