シベリア抑留の重苦を描いた「幻の画集」をついに発見

画家・四國五郎が遺したもの
栗原 俊雄 プロフィール

一切れのパンが食べられない

画才に恵まれ、幼いころから画家を目指していた四國。だが家の貧しさから早々に断念。小説の挿絵などを模写し、独学で絵を学んだ。1944年、陸軍に徴兵され中国に出征。敗戦後はナホトカなどに抑留され、48年11月に帰国した。

「広島に留まって、死んだ人のために描こう。平和のメッセージを描く画家になろう」。自身が過酷な戦争体験をし、また同じく画家を目指していた弟を原爆で亡くした四國はそう決意した。

抽象ではなく分かりやすさを追求した絵だ。1人でも多くの人に平和の尊さと戦争の悲惨さを伝えよう、という気持ちからだろう。原爆や抑留をテーマにした作品を多数残している。

 

また詩人で、「にんげんをかえせ」のフレーズで知られる峠三吉と協力し、反戦反核、平和活動に従事した。GHQによる厳しい言論統制のもと、峠との共作による手書きの反戦ポスター「辻詩(つじし)」を100枚以上制作し、ゲリラ的に街角に掲示した。

『記録』は生い立ちから、就職、出征、シベリア抑留からの引揚直後までを描いている。A4版よりやや小さい、厚さ7センチ余。1950年ごろの完成と思われる。

四國は歩兵第247連隊第1大隊本部に入営した。吉林省琿春(ホンチュン)北方の北部で対ソ陣地構築。8月9日、ソ連侵攻で戦闘状態に入った。17日に武装解除、捕虜となった。4泊の行軍で金蒼収容所に移動。

ソ連兵に「帰国のため」と言われ、国境を越えて入ソ、クラスキノ着。貨車でハバロフスク→コムソモリスク・ナ・アムーレ(徒歩5泊)→フルムリ→ゴーリン・エギロン湖近くの第6収容所に到着した(10月24日)。

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当初は、当然ながらソ連が嫌いだった。以下、『記録』より。

〈駅には浮浪児らしき子供が必ず二三人うろうろしており、列車が止まるたびに沢山の人間がかけよってはパンのかけらだとかジャガ芋をさし出して日本人捕虜の持っている万年筆だとか時計と交換した。(中略)このまづしさは何だ。みろ! これがロシアだざまあみろと云う気持ちだった〉とある。

四國は十月下旬、ソ連極東フルムリ地区にあるゴーリンに移った。収容所では道路補修、建物建設などに従事した。11月、黄疸の症状が出て入院し、15日間作業に出なかった。抑留一年目45年から46年にかけての冬が、もっとも死者が多かった時期だ。

〈私の持つ若さだけがかろうじてもちこたえていた元気が失われて、病気になった〉。栄養失調の故か黄疸が出た。血の小便が出た。飢えているのに、〈ひと切れのパン、一缶のスープが食べきれない〉。まともに食事をしていないにもかかわらず食欲がないというのは、よほど体調が悪かったのだろう。

〈初年兵の四十近い男が食器を洗ってくれる。その食べのこりを食べてくれる。それが食べたさに彼は私の病気がよくならないことをねがう……。彼が悪いのではない。なんでもない。それはあたり前のことだ。人間は食って生きているのだから〉

自分が食べるために、仲間の病気が続くことを願う。四國が体験した環境では、それは当然のことであった。