# ヤクザ # 山口組 # 暴力団

山口組「三国志」生き残りをかけた闘いの行方

ジャーナリスト・溝口敦が読み解く
溝口 敦 プロフィール

織田代表の来歴

織田はもともと五代目山口組で若頭補佐の一人だった倉本広文が率いた初代倉本組(奈良)の出身である。主流派の出ではない。

親分の倉本が1998年に急死した後、織田は2002年3月28日、旭川刑務所を満期出所し、大阪で「織田興業」を再結成した。同年、当時、山健組系の健竜会会長だった井上邦雄の盃を受け、健竜会入りした。

健竜会は山口組五代目・渡辺芳則が最初に創設した組であり、健竜会の会長だった者が直後に山健組の組長に上るなど、山健組では「名門」といわれていた。以後、織田は健竜会と山健組の昇進階段を急速に上った経歴を持つ。

しかし織田は山健組では外様であり、かといって山健組の外育ちでもなく、本当の意味での中育ちでもない。よって山健組に対しては、反省の念は持つものの、恨みつらみは持たず、過去の愛憎の念に左右されることが薄い。

しかし直接、井上邦雄の謦咳に接し、彼の組長としての器量を身近に見ている。また司忍の山口組支配(これを「弘道会支配」「名古屋支配」などともいう)に対しては、山健組の幹部として直接的、間接的に体験している。

織田は山口組のしがらみを離れて、山健組や弘道会を比較的、平静に見られる立場にある。彼はそれまでの山口組の二派、司や井上とは異なり、初めて山口組の改革、ヤクザ世界の改革を唱えた人間である。雄弁家であり、実績と言葉によって中堅、若手
層を結集できる改革者的な一面を持つ。

 

『三国志』は三世紀の中国を舞台に曹操の曹魏、劉備の蜀漢、孫権の孫呉――三国が争い合った時代を描くが、最終的に勝ち残った者はいないとされる。山口組三国志の決着が今後どういう形でつくのか、予測は極めて難しい。

筆者はここ二年足らずの間、織田に10回前後インタビューしている。織田は恨みつらみと味方身びいき、トップの下部からのカネの収奪の三つをキーワードに、五代目・渡辺芳則体制と六代目・司忍体制、そして井上邦雄・神戸山口組体制を総括して、反面教師として学び取り、これから実施すべき組運営指針や、トップの守るべき姿勢を模索しようとしている。

失われた「人権」

山口組三団体の鼎立状態は、煎じ詰めれば内外両面の危機から生まれている。

外的危機としては、暴力団対策法(暴対法)や全都道府県が持つ暴力団排除条例(暴排条例)、銀行や保険、不動産業界などが定める暴力団排除要項、組織犯罪処罰法などが挙げられよう。

山口組や系列組員はこれらにがんじがらめにされて一般社会から排除され、今や彼らの基本的人権さえ危ぶまれる状態に置かれている。

組員は新規に銀行口座や証券口座を持つことができない。住宅や車、携帯電話などをローンで買うこともできない。民間の賃貸住宅も借りられない。生保や損保に加入すること、ゴルフ場でプレイすることも難しい。

組織名では歳暮、中元の品を宅配便を利用して贈ることもできない。子供の授業料の自動引き落としや給与の自動振込も困難で、大都会ではシティホテルに宿泊することもできない。

甚だしい場合には仲間が死んでも葬祭場を借りられず、組事務所に数人分の鮨の出前を頼むこともできない。

これらは暴力団に対する「利益供与」と見なされ、土地ごとの暴排条例が「利益供与」した民間業者にもペナルティーを科すからだ。こうしたことは山口組に限った禁止条項ではなく、全暴力団に押し及ぶ禁圧項目である。

組をやめてから五年以内の元暴力団組員も同じ扱いを受ける。よって刑務所から出所したばかりの元組員は住まいを借りることもできない。仮に必要書類に家族や知人の名を借りて署名しようものなら、詐欺や偽造私文書等行使罪などで逮捕される。

つまりヤクザ、暴力団は現代社会に生きる資格なしと宣言されたに等しい。

警察や検察、裁判所、国や自治体、業界団体などが揃ってヤクザ、暴力団を敵視している。とりわけ警察は暴力団の壊滅を言い立て、記者クラブ経由で警察に情報提供を仰ぐマスメディアも、その尻馬に乗ってヤクザ、暴力団を安心して叩く。

ヤクザ、暴力団を庇う組織や人はこの世にほぼ存在しない。人権派の弁護士でさえ、彼らの代理人になることに難色を示す状況が存在する。

なぜここまでヤクザ、暴力団が嫌われたのか。ヤクザ、暴力団は自分たちの処遇がなぜこうなるまで放置したのか。それ自体が問題だが、ともあれ、山口組に限らず全暴力団がこうした外的危機にあることは明白な事実である。